2.村はずれの小屋
クロという名の人狼の全てを手に入れてしまうと、私は暫くその快感に身悶えしていた。
辺りにはもうクロという者が存在していた証拠は残っていない。全てが粉々になって、風に攫われてしまった。
白い大地が赤く染まっている事くらいだろうか。
だが、それも時間が経てばなくなっていくだろう。
いつしか塵は降り止み、人間達の為の時間が訪れようとしていた。何処かへ隠れていた哀れな者たちが、そろそろ日常に戻る事だろう。
私は立ち上がり、森の木々に身を潜めた。
もしも私が塵の中を歩いていたと分かれば、村人たちは私を魔女として殺しに来るだろう。そんな輩に捕まって殺されるなんて思いもしないけれど、面倒事は御免だった。
それよりも、私にはやるべき事があった。
クロの残した忘れ形見。
彼が最期まで守ろうとしていた雌狼こそが、次なる獲物に違いなかった。
まだ、クロの温もりを覚えている間に手に入れたい。夫婦揃って私のモノにしてしまいたい。それは、どんな感情よりも深くて汚らわしい欲求だった。
足元の塵が消えていく。
人間どもから魔物の排泄物だとさえ言われている塵。私達魔女にとっては単なる自然現象の一つに過ぎないけれど、人間達にとってみれば耐えられないほどの悪臭を放つものらしいから仕方がないのかもしれない。
そんな塵が消えると、すぐに村人たちが現れ出した。
辺りを警戒するように歩きつつ、各々が各々の生活に戻っていく。彼らはきっと一生知らずに過ごす事だろう。この村を脅かしていた人狼の一匹が、無残な死に方をしたなどという事実を。そして、それが魔女の仕業であるという事も。
白と黒しかなかった空に自然の色が戻って来た。
辺りはすでに夕方。太陽は沈み、月が登るまでの薄っすらとした不安定な時間が訪れていた。塵のせいで日中がとても短く感じられた。
村人たちの動きを見つめながら、私は夕闇に紛れて村を徘徊した。
昼間はともかく、夕方と夜は多少大胆に移動してもばれないものだった。人間達は変な所に敏感だけれど、私達が困る方面では驚くほど愚鈍で、魔女を恐れるわりに魔女そのものを根絶するにはとても至らない事しか出来ない。
特に、長閑な農村であるこの場所の人々は、都会の者達に比べてより一層鈍感のようだった。
そのくせ、彼らは都会の人間達よりもずっと魔女という者に対して強い拒否反応を示すらしい。彼ら自身、自分が魔女と疑われない事ばかりを考えて暮らしているようだ。とても煩わしそう。しかし、彼らはそんな自分達の生き方に疑問を感じたりしないようだ。
やはり理解出来ない。
私が人間じゃないからだろうか。
「おい」
突然男の声がして、私は身を竦め、闇に潜んだ。
すぐ近くで農具を持った村人の男達が二人、帰路についている所だった。塵に隠れていた所為で、帰る時間が遅れたのだろう、何処となく急ぎ足だった。
呼びとめたのは、その二人を追いかけてきた村人の一人だった。
「奴に餌はやったか? お前達の番だったろ?」
男の声に農具を持った二人が首を横に振った。
「まだやってない」
「もう夜だぜ? 今日くらいは絶食でもいいんじゃないか? 人狼も出るしよ……」
そんな二人に追いかけてきた男は首を横に振った。
「駄目だ、駄目だ。長が強く言ってくるんだ。少しでも痩せたらいけない。奴を利用するには、太らせ過ぎず、痩せさせ過ぎずがいいんだと」
一体、何の話をしているのだろう。
私はじっと彼らに耳を傾けた。
「へえへえ、長も残酷なことだね。もしも俺達が狼に喰われたって泣きもしないんだろうな」
「とにかく、お前達の番だから、きちんと餌やりをしてから帰れよ」
「分かったよ。任せときなって」
追いかけてきた男が去り、農具を持った男達も歩きだす。
小言を言いながら、彼らは何処かに向かい始めた。闇に紛れながら、私はそれを追った。ただの退屈しのぎだ。それに、彼らを狙って残された人狼が姿を現すかもしれない。
いい餌になりそうな二人の男。
私にそんな事を思われているとも知らず、彼らは目的の場所へと辿り着いた。そこは、村はずれにぽつんと存在していた古ぼけた小屋だった。
外より施錠され、中からは絶対に開けられない。
そんな場所の鍵を開けて、彼らは外に置いてあった袋を投げ入れた。
「ほらよ、今日の飯だ。しっかり食って《その時》の為に役に立ってくれよ」
嘲り笑うように男達は言った。
中からは唸り声のような物が聞こえてきたが、その声にも構わずに、彼らはあっさりと扉を閉め、再び施錠した。
「まずい。もうこんな時間だ。さっさと帰ろう」
空には既に月が現れ、星が瞬いていた。
彼らを狙って人狼が現れる気配も無いようだ。念のため、帰路につく彼らを追ってみたが、とうとうクロの忘れ形見は現れなかった。
今日は手に入れることが出来ないらしい。
どうせ手に入れられないのならば、気ままに散策してしまおう。そう思い私は、星空の下で、再び村はずれの小屋を訪れてみた。
そう、それは、ただの偶然だった。