5.大社にて
塵が再び降ってしまう前に、私はルーナを走らせて大社へと戻った。
グリフォスが近づいている様子はないらしい。
彼女は竜族を、とりわけ、ウィルを恐れていた。怪しげな術を使う彼女も、多数の強敵相手ではあのように有利に出られないのかもしれない。
ウィルや私の話を聞かされると、ニフは茫然としていた。
ただ立ち寄っただけのつもりだった自分達が、こんな重大な事に巻き込まれるなんて思わなかったからだろう。私だって思わなかった。思ったとしても空想物語に過ぎなかった。
けれど、実際に海巫女であるプシュケはそこにいる。窓のないプシュケの部屋で、さらにニフは困惑を見せた。
ルーナはというと、やや状況を分かっていないらしかった。だが、世間知らずの彼女でも、プシュケが特に神聖な者であるということは直感で分かったらしい。
プシュケはニフとルーナに向かって言った。
「あなた達が《赤い花》に寄り添う人達」
美しく澄んだ瞳が潤んでいる。
「初めまして、ルーナ、ニフテリザ。わたしはプシュケ。海巫女としてここに生まれた者です。あなた達の仲間、アマリリスに我が主リヴァイアサンの元へ同行してもらえないかとお願いしました」
ルーナが首を傾げ、ニフは何も言えないままただじっとプシュケを見つめていた。
「驚くのも無理はないわね」
プシュケは一人、力なく笑うと静かに頭を下げた。
「わたしにはアマリリスの力が必要なのです。今までなら里の人間と竜族の力だけで十分でした。でも、今は違います。悪魔がわたしを狙っている。安全なリヴァイアサンの元へ向かう前に、わたしを亡き者にしようとする人間の女がいるのです」
「人間の女……」
ニフが驚きを隠せない声をあげた。
「悪魔に取りつかれた女です。身体は人間でも、その正体は悪魔。彼女が居る限り、わたしは安全にリヴァイアサンの元へ行けません。だから、アマリリスの力が必要なのです」
「アマリリスじゃないと駄目なの?」
物怖じすることなくプシュケに訊ねたのはルーナだった。
「言い伝えの通りにしないと駄目なの? すごく強い竜族が一緒なのに?」
ルーナの問いに、プシュケは丁寧に頷いた。
「リヴァイアサンの統治されている海まで真っ直ぐ向かえたならば、彼らの同行だけで十分です。けれど、供物として捧げられる前に、わたしは他の二界を統治されているジズとベヒモスにもお会いして、祝福を受けなくてはなりません」
プシュケはそう言うと、そっと壁を指差した。
窓も無いこの部屋の壁には、三神獣を象ったらしき絵が飾られていた。
「空にはジズ。地にはベヒモス。海にはリヴァイアサン。彼らはその血を己の領域に留め、吐息すらも交わる事を嫌います。竜族はリヴァイアサンの血を引く者達。彼らはジズとベヒモスのいらっしゃる祠に近づくことが出来ないのです」
祝福を受ける瞬間、プシュケに同行できるのは里の人間達だけ。
そうなれば、グリフォスには敵わない。彼女ならば、神獣がいるとされる祠の前で平気で殺戮が出来るはずだろう。
「だから第三者の力が必要なのか……」
ニフが呟いた。
私は小さく息を吐いた。手のひらを見つめ、その中に流れているはずの魔力を探ってみる。まだ戻らない。溜めこんでいた全てを吸い尽くされている。
触れられるだけで不利になる。そんな者を相手にプシュケを守りきれるのだろうか。
滅亡しかかっている、古ぼけた《赤い花》の私が。
「アマリリス」
その時、プシュケが手を伸ばしてきた。
呼ばれていると気付いて、私は慌ててプシュケに近寄った。プシュケが手を伸ばし、私の頬に触れる。その途端、妙に温かなものが伝わってきた気がした。
――これは……。
プシュケが手を放しても、温もりだけは消えなかった。血流に乗って、私の全身に巡っているようだ。そうだ。これは、少しの間、忘れかけていた感覚。
魔力が戻ってきた。
「悪魔に触れられたのですね。他者の力を吸い取り、自分のものにする。それが悪魔の持つ力なのです。これは呪いのようなもの。でも、成長したわたしにならその呪いを解ける。悪魔の呪いは大人の巫女が触れるだけで消え去ってしまうの……」
私はプシュケを見つめた。
人間の中から生まれた巫女は、すでに供物として熟しているのだ。リヴァイアサンは待ち続けているだろう。熟した供物と主である神獣が離れ離れになっていてはいけない。早く、プシュケは捧げられるべきなのだ。
「けれど、わたしは……わたし自身は、悪魔に対して悲しいほどに無力です。捕まってしまえば、殺されるしかない。リヴァイアサンに会うために生まれてきたのに、その前に死んでしまうなんて嫌……」
魔力の流れを実感しながら、私はグリフォスの事を思い出していた。
次に彼女に会うことがあれば、出来る行動は一つ。プシュケの傍を絶えず離れず、その身を守りながら逃げる事のみだ。
魔力が戻ってきた今なら大丈夫と言える。
「それで」
ニフは私へと視線を移した。
「アマリリスは承諾したの?」
「ええ」
私は短く答え、プシュケの前に膝をついた。
この先は、目的のない放浪ではなくなる。
人狼を狩る暇も殆どないだろう。それでも、仕方が無い。
私に倣うように、ルーナも膝をついた。視線の先にいるのは私。彼女は恐らく、私の真似をしただけだろう。ニフは少々迷ったが、やはり同じく膝をついた。
「なら、文句はないよ」
ニフは空虚な笑みを浮かべると、膝をついたままプシュケに向かって丁寧に頭を下げた。
「これから暫く、身に余る体験をさせていただきますよ、プシュケ様」
それを見て、プシュケはそっと微笑みながら口を開いた。
「わたしの事はプシュケでいいわ」