3.岩場にて
カリスに連れられて辿り着いた場所は、里からも大社からもそして、丘からも近い岩場の隙間だった。隙間から見える外は、今は塵のせいで空も大地も白と黒にしか見えないけれど、塵が止めばきっと綺麗な夜空が見える事だろう。
だが、その夜空を心待ちにしている余裕など、私には無かった。
カリスは手を離さなかった。
周囲を警戒し、脅すように言う。
「今日はここにいろ。奴はお前を殺すつもりだ。塵が止んだらすぐにまた近づいて来ることだろう」
「――それなら尚更帰らせなさいよ」
無駄と分かっていても、私はカリスに訴えた。
「ルーナとニフが里にいるのよ。人食いが二人に目をつけないとでも思っているの?」
「そんなの私が知った事じゃない。たとえその二人を人質に取られたとしても、お前を返しはしないよ。お前は馬鹿のようだからね。一人きりで敵うはずも無い相手に平気で向かっていく。このあいだの同胞の男。今度はあの人間の女」
カリスは目を光らせて私を見つめた。
「いちいち助けに入るのも面倒だし、胸糞悪い」
呆れたようにカリスはそう言うと、私の両手を強くねじあげ圧し掛かると、その腰から剣を抜いた。魔女狩りをしていた人狼から奪ったものだ。
あれで斬られたらひとたまりも無い。
私は思わずカリスに叫んだ。
「放して。放さないとあなたを殺すわ。クロのようにね」
だがカリスは全く恐れをいだかなかった。
「出来るものか。今のお前は私にすら敵わない。気付いていないのか? お前は今、初歩的な魔術すら使えないはずだ。丸腰の人間とさほど変わらない無力な女に成り果てているのさ。哀れな《赤い花》の生き残りよ」
「そんなまさか……」
口から出任せに決まっている。
そうは思ったが、急に不安になった。カリスの言葉を聞いて、私はふと自分の身体が妙に軽いような気がしたのだ。
「疑うならやってみろ。この状態で私を殺してみるといい」
普段なら出来る。
両手を掴まれている状態だけならまだ魔術で挽回できる。だから、大丈夫だ。風の魔法でもなんでもいい。何か魔術を放ってカリスを脅かせばいいのだ。
初歩的なもので十分なはずなのだ。
「そんな……うそでしょ……」
私の身体は震えていた。
思いつく限りの魔術を放とうとしても、何も起こらない。確かにいつもやっている通りにしているのに、状況は全く変わらないのだ。
「魔力が……なくなっている……」
カリスが私の首に剣を突きつける。
それを払う術すら不発に終わる。
「あいつに触れられたせいだ。奴の手がほんの少し触れた瞬間、お前の中から一気に力が吸われていった」
私は絶句した。
グリフォスは悪魔と呼ばれるだけの者なのだ。
人間の身体をしていることが唯一の救いなのかもしれない。しかし、それではグリフォスとは何なのだろう。何のために存在しているのだろう。
「アマリリス」
カリスが低い声を漏らす。
「お前は今、無力な人間と同じだ」
地面の上に無様に押し付けられ、見降ろされるその状況は、屈辱的でしかない。だが、それ以上にカリスが何をするつもりなのか分かるようで恐ろしかった。
彼女の手がそっと私の腹部に触れた。
「――ヒレン」
ふとカリスがその名前を呟く。
「お前の同胞があの女に喰われたのか?」
「……聞いていたのね」
「聞こえてきただけだ。ずっとお前を見張っていたからね」
カリスの言葉に私はゆっくりと目を閉じた。
塵の闇の中で浮かび上がる彼女の眼光は鋭く、今の私では捉えきることさえも恐ろしい。これが、人狼に追い詰められた人間達の気持ちなのだろうか。
「友を殺されたことを恨んでいるのか?」
淡々とカリスは訊ねてくる。
「お前のような奴でも、仲間の死は悲しいものなのか?」
「――悲しいに決まっているじゃない。あなただって、それを狙ってルーナやニフを襲うのでしょう?」
「そうだな。だが、半信半疑だ。お前を精神的に追い詰めるのが目的ではなく、私が気持ちを抑えるためにやるだけのことだ」
カリスは低い声で唸る。
「私の目的はお前だけだ」
こうしている今も彼女は私を殺したいと思っている。そして、その願いをすぐにでも叶えるはずだ。今の彼女なら私をどうとでも出来るのだから。
私にはもう選択肢が無い。逃げる選択肢もなければ、身体の中でむなしく渦巻いている欲望を満たす選択肢も無い。
「やりなさいよ」
恨みのこもった声で、私はカリスを煽った。
「あなたもグリフォスと変わらない。あの女がヒレンを喰い殺したように、あなたも私を殺せばいいわ」
カリスの冷たい目が私を見つめている。
死というものが怖くないわけではない。むしろ、恐ろしくて仕方が無い。私だって生き物であるのだから当然だ。死にたくないから戦い続け、魔術を磨き、魔力を温存していく。そうして身を守り、欲を満たしてきたのだ。
魔力は私の武器。身を守るための爪と牙。
それを失った状態で敵に捕まれば、どうなるかは分かりきっている。
「そうしたいね」
カリスは短くそう言うと、片手で私の髪を掴んだ。
剣で首を刎ねる気だろうか。
そう思った途端、カリスが急に剣を手放した。
無理矢理目を合わせられて、私はふと気付いた。カリスの表情から殺気が消えていた。怒りは残ったままなのに、暴力的な眼差しがすっかり消えていた。その目に浮かんでいるのは、哀しみと悔しみ。
「世の中は残酷で不公平だ」
カリスは言った。
「お前みたいな奴が選ばれるなんて。《赤い花》がもっとたくさんいたら、こういう事にはならなかったかもしれないというのに。どうして、お前みたいな奴が――」
カリスは目を閉じて私から離れた。
急に解放された私は呆けてしまった。カリスが泣きだしたのだ。私の目の前で、肩を震わせて。その目元は必死に手で覆われていたが、指の隙間からは白い雫が見えている。
――《赤い花》がもっとたくさんいたら。
カリスは聞いていたと言った。聞こえてきたと言った。全てを聞いていたのだろう。グリフォスとの会話から、私がプシュケに頼まれたことも全て。
私はやっと気付かされた。
カリスもまたこの世界のまっとうな生き物なのだ。三神獣を純粋に崇拝し、穢すべきではないと理解する生き物の一人。
人狼は人狼の価値観で生きている。
けれど、三神獣に関してだけは、人間とも価値観が一致するものなのだ。供物に手を出すべきではない。神獣と供物は敬わなければならない。
「海巫女の話も聞いていたの?」
「聞いていたよ」
カリスは涙を隠すように目を逸らしたまま答えた。
「人狼に隠れられない場所は無い。いかに竜族とはいえ、あの程度の呪いなど、私には通用しないよ。竜族がお前を起こした時からずっと、お前の傍の影を行き来していた」
カリスはそう言うと目を拭った。涙のあとはもう見えないのだろう。
だが、私は無意識にカリスを直視しないようにしていた。我ながら珍しい事かも知れない。私はどうやら人狼であるカリスに気を遣っているらしい。
「お前は海の供物に選ばれた《赤い花》なんだ……」
カリスは力なく言った。
「そんなお前を、今はまだ喰う事も出来ない」
落胆している。
悲しげなその声が頭の中で響き渡る。悔しげなその姿は憂いを帯びていても美しいのは変わらないまま。けれど、私が抱えた魔女の性に結び付くような狼の魔性は、今だけは感じられなかった。
代わりに湧き起こるのは複雑な感情。安堵感と罪悪感、そして憐れみのような気持ちが混ざり合っていた。
私は何も声をかけずに、カリスから視線を外して外に広がる白い空を見上げた。
降り続いていた塵が止もうとしていた。