2.助太刀
どうやらカリスにまたしても助けられたらしい。
いや、これを「助けられた」と言ってもいいのだろか。彼女は私を殺したいから助けているのだ。矛盾しているようだが、きっと彼女の中では矛盾してはいないのだろう。
それよりも、私は不快になっていた。
彼女に密着されているだけで、欲が溢れそうになる。
性というものは魔女が身を滅ぼす要因だ。このまま長くカリスに捕まっていると、気でも狂ってしまうかもしれない。
「カリス」
放して、と懇願しようとした言葉は殺されてしまった。カリスに腹をきつく絞められたせいだ。吐き気を抑えながら、私はカリスの力に従った。こうしている間にも、どんどん欲望は掻きたてられていく。
殺したい。
後ろにいるこの女を。たった今、私を助けてくれたこの女を殺してしまいたい。
動かない身体の中で、そんな感情だけが空回りしていた。
「じっとしていろ」
脅すような口調でそう言うと、カリスはグリフォスに注意を向けはじめた。人狼の目にはあの女が何に見えるのだろうか。私には人間にしか見えない。彼女にも人間にしか見えないものなのだろうか。
カリスが微かに唸り始める。グリフォスの異常性を嗅ぎ取ったのだろうか。
グリフォスはそんなカリスを面白そうに見つめていた。
「綺麗な狼さん。あなた、アマリリスが何者か知っていて助けるのね?」
甘い声が問いかけてくる。
「知っている」
カリスはその問いに少しだけ息を漏らした。
「さすがに黙って見ている事が出来なくてね。この女はいずれ私が殺す。だから、お前にやるわけにはいかないんだ」
「なるほど。その《赤い花》に執着しているのね」
グリフォスはますます目を細めた。
煽っているように見えるが、カリスは全く動じない。逆に、グリフォスもまた襲ってくる気配を見せなかった。
「それならいいわ」
グリフォスが言った。
「今ここで殺しなさいよ。わたしは邪魔をしない。黙って見ていてあげる。見ているのが嫌だったら立ち去ってあげる」
カリスが少し動揺した。
グリフォスの言葉が意外だったのだろう。腹に爪が喰い込んでくる。もしかしたら、グリフォスの言葉通りに動くかもしれない。
だが、カリスもまた冷静だった。
「いや、その手には乗らない」
あっさりと拒絶した。
「悪魔の言う事なんて信用できないからね」
カリスは不敵に笑みながらそう言った。
「――ふうん」
グリフォスの表情が変わる。
カリスの態度に何かが急激に冷めていったようだ。
「じゃあ、あなたもわたしの邪魔をする気?」
穏やかな口調に脅しが含まれているのを私は見逃せなかった。
しかし、カリスは物怖じせずに短く答える。
「さてね。この場合、どうなるんだろうね」
そう言いつつも、カリスは殺気だった視線をグリフォスに向けていた。
戦う気でいるのだろうか。敵う訳が無い。相手は得体の知れない存在。人狼であろうと互角に戦えるかも怪しい。
グリフォスもまたカリスを見下すように眺めていた。
「人狼を食べたこともある」
ぽつりと言葉を漏らす。
「そんなに美味しくなかったわ。でも――」
うっとりとした表情が月明りに浮かび上がっていた。
「あなたの毛皮は綺麗なのでしょうね」
「生憎だが、しばらく手入れしてなくてね」
苦笑しながらカリスは言った。
若干だが、手に力が入っている。何かしら動くつもりだろう。もがこうにも爪が喰い込んでいてもがけない。
「それに、人間の身体を持つお前には、タイムリミットが近づいて来ているようだぞ」
――タイムリミット?
カリスの言葉が気になった丁度その時、空から雪のようなものがはらりと落ちて来る事に気付いた。
それに気付いたグリフォスが我に返ったように空を見上げる。
雪ではない。
何の前触れも無く降っては止む、この世界の現象。魔物の神が魔物達を憐れんでもたらしたという恵み。
人間の身体を持つ者にとっては苦痛でしかないその物質。
塵だ。再び降ってきた。
途端に、グリフォスが口元を覆い始めた。苦しそうにしている。そうだ。彼女の身体はやはり人間なのだ。怪しげな術と能力で魔女である私を脅かしていたけれど、その基本は人間と何も変わらない。
「残念だったな。グリフォスとやら」
カリスは嘲笑う。
「ついでに言っておくが、もうとっくに大社は竜族で一杯だよ」
吠えるように言い捨てると、私の身体を強く引き寄せた。
「来るんだ。今のうちに離れるぞ」
拒否する権限はないようだった。
この塵が止めば、グリフォスはまた襲いかかって来るかもしれない。欲望をどうにか抑えながら、私は静かにカリスに引っ張られていった。