1.取引
月明かりが夜の世界を照らし、私達の周りは驚くほど明るい。その光景からは、つい先ほどまで人間達が悪臭に苦しめられる塵が降っていたなんて想像もできないほどだ。
民宿を出てからどのくらいの時間が経っているのだろう。
月の傾きだけでは、今が何時かなんて分からない。
私はふと客室に残してきたルーナとニフの事が心配になっていた。
そんな私の様子を見つめながら、グリフォスは白い息を吐く。その白い息の動きを見つめながら、私はやや目を逸らした。
――わたしの邪魔をしないで。
それは、つまり、この里で起きようとしている大事を見逃せということだろうか。見て見ぬふりをしたいのは山々だ。神話に関する事件など、大地を放浪するだけの私には関係ないことのはずだった。
古い血を引いているからって何だろう。
秘薬目当てで魔女狩りごときに狩り尽され、滅ぼされた弱々しい一族の生き残りに何が出来るのだろう。
今や同じ血を引くヒレンも死に、この世界の何処かに潜んでいる《赤い花》もそんなに残ってはいないのだ。
――でも。
私は思い出す。
この目で見た人間の少女プシュケの姿を。神々しく、どの立場の者が見ても、彼女の事を穢そうだなんて思わないだろう。
そんな彼女に私は頼まれたのだ。
「出来ないわ」
私は答えた。
敵わないだろう相手への拒否。それがどういう展開をもたらすか、今から恐ろしい。けれど、拒否しないわけにはいかなかった。
「私にはそんな事出来ない。だって私は――」
「《赤い花》だから?」
面白そうにグリフォスが言った。
その表情の気味の悪さに背筋が凍りつきそうだった。
「どうして……」
私はグリフォスに訊ねた。
「どうしてあなたはこんな事をしているの?」
「こんな事?」
「海巫女に手を出したらどうなるか、あなたは分かっているの? 彼女は――」
言葉に詰まりつつ、息を飲んでから続ける。
「彼女はヒレンとは違うのよ……」
海の供物とヒレンと比べるのは悲しいことだった。
この世界にとって、ヒレンはいなくなっても困らない存在。私が日々狩り尽している狼たちと何も変わらない。もちろん、私にとっては違った。ヒレンを失ってから私は、変わってしまったような気がする。だがそれは、私個人の問題であって、グリフォスには関係のないことだった。そう、それこそ、ただの人狼であるクロがカリスにとって大切であることが、私にとってはどうでもよかったように。
けれど、海の供物――プシュケは、そういうものじゃない。
「そんなの分かっているわ」
グリフォスは平然と答えた。
「だから、欲しいの」
目を細めながら、禍々しい笑みを口元に浮かべながら、彼女は楽しそうに言う。
「人間の味には飽きた。魔族の味にも、魔物の味にも飽きた。不完全なわたしには、この世界は退屈なものでしかないわ」
グリフォスは恍惚としたまま、私を見つめる。
「神獣の隠し持つ乙女たち。あの子たちを食べたら、どんな力が宿るのだろう。そう思うと、試さずにはいられない」
その目はまるで魔物のようだった。
人間であるはずの彼女。人間によく似た気配を持つ彼女。一体、何なのだろう。魔女である私すら脅かすようなその気配は、何者なのだろう。
プシュケはそれを悪魔と称した。
悪魔。この女こそが、その通りの存在とでもいうのだろうか。
「わたしは海の供物が欲しい」
グリフォスは言った。
「空の供物も地の供物も、全部欲しい。全部食べたい」
月に向かって笑いながら。
「だから、わたしの邪魔をしないで欲しかっただけ」
再び私へと目が向けられる。
「どうしても、わたしの邪魔をするというのなら――」
その目は獣のようだった。サファイアのように青く冷たく光る、非常に珍しい魔法の目。グリフォスの表情ががらりと変わった。
「ヒレンと同じように、お腹を裂いてあげるしかないわね」
来るつもりだ。
私は思い出せる魔術を導きだし、とっさに力を放った。思いついたのは光が盾となる防御の魔術。彼女の接近が怖かった。捕まればどうなってしまうのか分かっている。もう随分前に見たはずの光景が、昨日の事のように思い出せる。
――ヒレン……。
私は嫌だった。ああなりたくない。生きながら腹を裂かれるなんて嫌だった。
焦りが私の思考を狭め、行動すらも縛っていく。風の魔術を消されたからといって、何もかもが効かないなんて事はないだろうと信じたい。
けれど、彼女が迷いなく近づいて来る姿を見て、私は不安になった。
この光の盾すらも、この女は消してしまえるというのだろうか。
「――来ないで」
私は盾の後ろから思いつく限りの魔術を放った。
風は駄目だった。では、水は、炎は、毒は、光は、電撃はどうだろう。しかし、どれも当たらない。がむしゃらに放つ私の魔術はグリフォスに当たらなかった。効くかどうかさえも分からないまま、とうとうグリフォスは私の盾に触った。
「ごめんなさいね、アマリリス」
彼女に触られた場所から、盾が溶けていくのが分かった。
弾丸も、剣も、光熱も、炎も、水も弾く魔術の盾が、彼女に触れられただけで消えていこうとする。
「あなたは……一体……」
盾が完全に消えた。
これで、私とグリフォスを隔てるものは何もなくなった。
私は、このまま――。
「でも、あなたが悪いのよ」
グリフォスの片手が私の頬に触れた。
私はただ黙ったまま彼女に捕まるのを待つほかなかった。死が訪れようとしている実感なんてない。ただ、ヒレンの事が頭を過ぎっていた。もう随分と遠ざかっていたはずの温もりが、何故だかすぐ近くにあるような気になった。
私はこのまま死ぬのだろうか。
ルーナを残して。ニフを残して。
――私は……。
そんな時だった。
不意に私の身体が何者かに引き寄せられた。
グリフォスの手が虚しく宙にとどまっている。一瞬、どうしてこうなったのか分からず、私は茫然としていた。
だが、すぐに背後からある気配が伝わってきて、私は息が止まりそうになった。
惹きつけられる気配。芳しく好ましい気配。私の汚らわしい殺しの欲望を掻き立てる素晴らしい気配。
「邪魔して悪いね」
感情の伴わない言葉が私の背後からグリフォスへと向けられている。
「カリス――」
その名を呼ぶと、黄金の髪を持つ女人狼は、冷たい目で私を睨んだ。