9.消えない記憶
グリフォスは立ち尽くしたまま私を見つめている。
魔力を溜めて放つ私の行動にちっとも恐れを抱いていないようだ。
それでも、私は冷静さを取り戻せなかった。この女の身体を滅茶苦茶にしてやりたいという暴力的な感情が暴れ出し、抑えきれず、どうして彼女が余裕そうに私を眺めているかなどと考えている余裕なんて生まれなかった。
グリフォス。
この女とは前に会ったことがあった。
ただの人間でしかないはずの肉体。けれど、その瞳の奥には人ではない何者かが潜んでいる。それは、魔物でもなく、魔族でもない何か。悪魔と呼ばれるこの女は、魔女すらも騙し、凌駕するほどの力を見せる危険な女だ。
そう。彼女は、私の敵。
私の目の前で、私の手の届きそうな範囲で、ヒレンを喰い殺した美しさの皮を被っただけの人食い女。
名前など知らなかった。
だが、その姿だけは脳裏に焼き付いて離れなかった。ヒレンの返り血を浴びながら、まだ動いているその身体を美味しそうに貪る光景。吐き気をもよおすその記憶は、今でも悪夢として私を悩ませる。
「グリフォス……」
私はその名を呼んだ。
「ヒレンの仇!」
冷静さなんて何処にも無かった。
昔、ヒレンから教わった風の魔術を放ち、グリフォスの肉体を狙った。その冷たい突風は、当たれば人狼でさえも身体を切断されるほどのものだ。それを極限まで魔力を溜めて放つ。他の魔物ならともかく、ただの人間ならば間違いなく一瞬で粉々になってしまうだろう。
そう、ただの人間ならば――。
だが、グリフォスは、ただの人間ではないようだ。
一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。私が放った風は確かにグリフォスをまっすぐ狙ったはずなのに、その身体を傷つける事は全く出来なかった。
どういうことだろう。
私の魔力はグリフォスの瞬き一つで消されてしまったのだ。
「落ち着きなさいな」
グリフォスは淑やかさを装いながら言う。
「わたしはあなたと戦いたいわけじゃない」
くすりと笑んでみせるその仕草はどう見ても私を煽っているようにしか見えない。けれど、仮にそうだとしても、もう私の闘志に火をつけるようなことはなかった。
魔術が、そして魔力が、消滅したことが予想外過ぎて立ち直れなかった。
「ヒレン」
グリフォスがそんな私をあざ笑うかのように友の名を呟く。
「そう、そんな名前だったわね。豚で軽々と釣られた哀れな魔女。あなたと同じ古い血を引く《赤い花》の出来そこない」
私は必死に胸を抑えた。
――ヒレン。
彼女の名前に縋り、私は呼吸を整えた。初めて会った時から、同じ血を引いている事は知っていた。かつては繁栄していた血脈も、いまや、巡り合うのも奇跡なほどに廃れている。そんな中で起きた彼女との出会いは、運命のようだった。
――それなのに。
「馬鹿な子だったけれど、それがとても有難かった。そうね。私が男だったら、もっともっと可愛がってあげられたのにね」
死んだ友を愚弄されている。それも、殺した張本人に。私から友を奪った犯人に。
怒りで我を忘れてしまいそうだった。冷静さをどうにか戻さなくては。そうしないと、ヒレンの二の舞となるだろう。
そんな私の様子を見て、グリフォスはさらに言った。
「数少ない仲間を殺されて、あなたはさぞ、わたしを恨んだのでしょうね。弱々しい《赤い花》の生き残りさん」
「やめて……」
唸るような声は自然と漏れだした。
ヒレンの事を口にされるだけで、虫酸が走った。言葉を話せる相手に目の前で殺されたというだけでも腸が煮えくりかえる想いをしたというのに。
「あなたにヒレンの何が分かるっていうの」
吐き捨てるように私は言った。
「私の、何が分かるっていうの……」
見えない波に呑まれていく様だった。
出来る事ならば、この場から逃げ出してしまいたい。だが、そうはいかない。まだ時間はそんなに経っていないのだ。ウィルはきっと大社に辿り着いていないだろう。
ぐっと地に足をつけ、私は自分を落ち着かせた。
自分自身が獣にでもなってしまったようだ。興奮したルーナを落ち着かせる時のように、私は自分の胸に手を当てたまま、深く息を吐く。
「分かるわ」
グリフォスは呟くように言った。
「だって、わたし、ヒレンを食べたもの」
笑みを殺しながらグリフォスは言う。
耐えるのが辛かった。下手をすれば涙でも漏れてしまいそうだ。戦いたい気持ちが溢れ、私の冷静さを再び狂わせようとする。それなのに、私は分かってしまった。彼女には勝てない。今の私では殺せるような相手ではない。
必死に堪える私を見て、グリフォスはやや目を細めた。
「ふうん」
小さく呟き、眉を動かす。
「お友達よりも賢いのね。あなたならいい血を広げられそうだわ」
「少しは黙ったらどう? 私を煽るつもりなら無駄よ」
「そう。無駄なのね」
グリフォスは笑みを含ませる。
「でも、わたし、あなたと戦いたいわけじゃないのよ」
冷たい声が風のように私へと吹いて来る。
その声とは裏腹にグリフォスは、優雅に、たおやかに、私へとお辞儀をしてみせた。その姿は、かつて私の友の腹を喰い破ったとは思えないほど、気品漂うものだった。
「この先――」
彼女はゆっくりと間を置いてから続ける。
「私の邪魔をしないと約束してくれないかしら」
それは、血の気の多い宣戦布告でも、荒々しい脅しでもなく、ただの《お願い》のようだった。