8.悪魔
大社の外に出てみれば、辺りはすっかり塵が治まっていた。
人間達の見張りもすでに復活していて、私が出て来ると一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべた。だが、同時にウィルの姿を確認すると、特に何も言わず敬礼だけをしてみせた。
私はウィルに連れられて、大社から少しずつ離れていった。
プシュケとの会話の内容が今も頭について離れない。
特に、プシュケに血筋の事を見破られたことが衝撃となって私の心身に残り続けていた。供物というものを舐めてはいけないのだ。本当は、竜族以上に警戒すべき相手なのかもしれない。けれど、そんな供物が恐れている事態がこの里を覆っている。
私はウィルの先導で、その事態を引き起こしている者の潜む場所へと向かった。
どんなに神経を磨ぎ澄ませてみても、その気配はどうしても感じられない。感じられるのは、今もどこかで私を見張っているらしいカリスの気配だけだ。恐らく、カリスの気配についてはウィルもとっくに気付いているだろう。何も言わないのは、カリスが特に私達の邪魔をする様子を見せないからだ。
「着きました」
ウィルが静かに告げた。
「この先です」
その場所は、何の変哲もない丘だった。木々はなく、開けた道があるだけ。ただ、その道は、里から次の町へと向かうための近道であり、そう経たない内にプシュケをリヴァイアサンの元へと運ぶ際に使わなくてはならない道らしい。
そんな場所で、問題は起きていた。
「初めに異変があったのは、二年ほど前。一人きりでこの道を通ったはずの人間が消えたのです。魔物や魔族、そうでなければ獣に襲われたのかもしれないと捜索したところ、喰い散らかされた遺体が多数見つかり大騒ぎになりました」
ウィルは語りながら、警戒を顕わにした。
「次は一年ほど前。この近くで里の子供達が遊んでいた所、旅人を名乗る女が優しく話しかけてきたそうです。その後、彼女に誘われて子供達の一部は何処かへ消え、残りは飽きて里へ帰ってきました。その後、女に誘われた子供達が行方不明になりました。捜索したところ、この丘に変わり果てた姿で並べられていました……」
段々と空気が変わってきた。
私はふとその女とやらが目撃されるという場所へと目をやった。何だか、気になる気配を感じた。変わっているとか、禍々しいだとか、そういうものじゃない。何故だか、懐かしいような、切ないような、そんな気持ちになってきたのだ。
「そして次は数ヶ月前。プシュケ様がお年頃になり、リヴァイアサン様の元へお返しする決まった日、この丘に人間の女が現れました。彼女を目撃したのは隣町まで用のあった里の大人数名。彼らは女にこう言われたそうです。『わたしはグリフォス。あなた達の守る宝物を貰いに来た』と」
――グリフォス。
何故だろう。その名前が妙に頭に刻まれていく。忘れてはならない名前として、覚えておくべき名前として、その名前がこびり付いて離れない。
私は震えを感じながら、ただ前を見つめていた。
グリフォスという名前の響き。そして、正面から伝わり続ける不可思議な気配。塵がすっかり晴れた人間好みの世界の中で、怪しげな雰囲気を撒き散らして現れようとしているのは、一体何者なのか。
「来ましたね……」
ウィルが緊張を顕わに呟いた。
「奴が、グリフォスです」
その姿がはっきりと見えた時、私は一瞬だけ固まってしまった。
変わった気配だけが風と共に流れ込んできて、私の肌をぴりぴりと刺激してくる。そんな私の様子を見つめ、グリフォスという女は微かに首を傾けた。
口元に浮かぶのは笑み。
私はその笑みに見覚えがあった。
「あなたがここにいるってことは」
グリフォスが口を開く。
その言葉はウィルに投げかけられているようだ。
「あの子の傍は手薄なのね」
「それはどうでしょう? 私の他にも優秀な同胞がお守りしていますからね」
「あらそう? でも、わたしはあなたしか警戒してない。何故なら、あなたが一番強いから。そんなあなたが此処にいるってことは――」
と、グリフォスが微かに身を乗り出した。
「あの子に近づくのは簡単そう」
目元に笑みを浮かべ、グリフォスは言う。
私は思わず前に出た。
「ウィル」
グリフォスを見つめたまま、私はウィルに言った。
「すぐに大社に戻ってください。私は彼女の相手をします」
「アマリリスさん……けれど――」
ウィルが喰い下がろうとするのを阻止し、私はそっと笑みを作った。
「大丈夫」
グリフォスが私に視線を移した。
「彼女と話をしてみたいの……」
私の様子に気付いたのだろう。
ウィルは息を飲むと、そのままそっと距離を取った。
「すみません、アマリリスさん……」
一歩、二歩と下がり――。
「お願いします」
そして駆けだす。
ウィルが心配なのはプシュケだけだ。彼の使命は海の供物をリヴァイアサンに捧げる事。だから、こんな異常者の元に私を置いて行くことなどに罪悪感など覚える必要はない。
グリフォスは去っていくウィルを見つめつつも、一歩も追いかけようという姿勢を見せなかった。それは、全く意外な行動ではなかった。彼女もまた、私に興味を持ったのだろう。私が興味を持ったのと同じように。
「アマリリス……」
グリフォスがうっとりとした表情で呟いた。
「覚えのある名前だわ……」
そして再び、私を見つめる。いや、私ではない。私の身体の中にある、何かを見つめているようだ。
「懐かしい鼓動。懐かしい名前。あなた、前に会った子ね……」
グリフォス。私が覚えておくべき名前の女が、手を差し伸べる。その仕草。その眼差し。その顔立ち。その風貌。
何もかもが変わらない。
「おいで、アマリリス」
甘い声で彼女は誘う。
「お友達の話をしましょう」
その言葉を聞いた瞬間、私は、それ以上、じっとしていられなかった。