7.赤い花
私はプシュケと名乗った巫女と向かい合ったまま、口を開けずにいた。
相手は無力な人間だが、魔女である私にとってみても、ただの人間ではないのだ。この世界でまっとうに生きる者のなかで、三獣の供物に敬意を払わない者なんているだろうか。人間であろうと、魔族であろうと、魔物であろうと、供物として生まれた存在だけはどの時代でも特別な者だ。そんな彼女らに不敬を働けるものがいるとすれば、それはすでに正気を失っている者だけだろう。
プシュケはその特別な者。
どんな魔物でも、まともならば手を出せない。
手を出すどころか、目にするだけで緊張が走る。こうして向かい合っているだけで、私は逃げ出したいような恐れを抱き始めていた。
「ウィル」
沈黙の中で一番に口を開いたのは、プシュケだった。
「この御方と二人で話がしたいの」
それは、返答を許さない命令のようだった。
ウィルは何も言わず、そして、私を振り返ることも無く、静かに、あっさりと退室した。
残されたのは私とプシュケの二人だけ。
この窓も無い密室に二人きり。緊張で息が詰まりそうになる。魔女として生まれて以来、こんな経験は殆どなかったかもしれない。それもそうだ。相手は一生に一度、目にすることが出来るかも分からない三神獣の供物の一人なのだから。
「アマリリス」
私の名を口ずさみ、プシュケは恍惚とした表情を浮かべた。
「あなたをずっと待っていた」
「待っていた……?」
やっと声が出た。
本心から敬うべき相手を前にすると、長老やウィル相手にはあんなにすらすら言えていた口上の一つすらも出てこない。
だが、プシュケはそんな事には興味がないようだった。
彼女はまっすぐ私を見つめ、震えていた。神秘的な海巫女として彼女は、ウィルが退室した瞬間に消えていた。私と二人きりになった途端、プシュケはまるでただの年相応の少女のように、私に縋りついてきたのだ。
「言い伝えがあるのよ。あなたなら、わたしを助けてくれるはず。恐ろしい手からわたしを守ることが出来る守護者……」
怯えを顕わにした声でプシュケは私に告げた。その哀れな姿を見ていると、段々と彼女に対する緊張も薄らいでいく。その代わりに冷静さがだいぶ戻って来た。
「その言い伝えっていうのは何なのですか?」
「『《赤い花》、獣と人を従え、我の命狙う悪魔を退けるだろう』」
プシュケはその一文を諳んじてから言った。
「リヴァイアサンの元に初めて参ったマルが遺したと言われる伝承です。世界は広くて深い。様々なものが様々な想いで暮らしている。世界に存在する中には、わたし達供物を敢えて狙うような恐ろしい者もいる。それが悪魔。わたしは悪魔に命を狙われているのです」
「悪魔に命を……」
「その悪魔からわたしを守ってくれるのは《赤い花》と呼ばれる者。マルを助けたのは、獣と人に慕われる魔族の青年だった。彼の名も《赤い花》」
――赤い花。
その言葉を繰り返し、私はハッと気付いた。
さきほど彼女は私の事を《赤い花》と呼ばなかっただろうか。
「あなたこそが……」
プシュケは言った。
「アマリリス、あなたこそが《赤い花》よ」
「――待ってください、プシュケ様」
「プシュケでいいわ。どうぞ、プシュケと呼んで。敬語もいらないわ」
「じゃあ、プシュケ」
私は一呼吸置いてから、縋りつくようなプシュケの瞳から視線を逸らしつつ、告げた。
「勘違いじゃないかしら? 私はあなたが思っているような存在ではないわ。ただ欲望に身を任せて彷徨っていただけの魔女。だいたい、その伝承では、青年なのでしょう?」
「性別なんて関係ありません。大切なのは魔族で、獣と人を従え、《赤い花》であるということ」
「私は……《赤い花》などではないわ……」
否定しつつ、私は部屋をうろついた。
鍵はかけられているだろう。プシュケの許しが無ければ出ることも出来ない。そもそもこの里でそんな不敬が許されるわけもない。いかに温厚な竜族でも、プシュケを貶されたと捉えれば恐ろしいことになるだろう。
プシュケの視線が刺さってきた。
睨むわけでもなく、笑うわけでもなく、ただ不安げな表情を顔いっぱいに浮かべて私を見つめていた。
悪魔に狙われている、と言っただろうか。
だとすれば、一大事には変わりない。供物の一人が殺されるような事があれば、世界が大きく揺らいでしまうだろう。
「アマリリス」
プシュケは私を見つめたまま静かに言った。
「わたしには分かるのよ」
澄みきった瞳は人間とは思えないほど不可思議な存在感を放っていた。
「あなたは確かに《赤い花》よ。あなたの心臓は《赤い花》と呼ばれるもの。魔女のなかでも今や少なくなってしまった、滅亡寸前の家系の人……」
私はぞっとした。
供物というものを人間として扱うのは間違っているらしい。人間から生まれた供物は、人間でも魔族でも魔物でもない何かになってしまうのかもしれない。
少なくとも私はそう感じた。プシュケの言葉を否定する事が出来ないと思えば思うほど、私はそう納得するほかなかった。
忘れようと封印していた自分の身の上が、プシュケによって暴かれていく。
「人間に乱獲され、滅ぼされてしまった一族の数少ない生き残り。そうなのでしょう?」
「プシュケ」
「あなたは伝承の《赤い花》と同じ血を引いている。獣に慕われ、人間にも慕われてこの里にやってきた。そんな人、あなた以外に――」
「もういいわ。十分よ」
耐えきれずに私はプシュケの言葉を遮った。
プシュケが不安げに私を見つめている。その視線がとても重たかった。どうしても、私に出来るとは思えない、関わるべきとは思えない事態だ。
けれど、プシュケはどうしても引かない。引くということは、運命を諦めるという事。そう言いたげな眼差しに、私はとうとう根負けした。
「私は……」
プシュケの視線を帯びながら、言葉をそっと落とした。
「私は、どうすればいいの?」