5.真夜中の訪問者
目が覚めた時、外では塵が降っていた。
悪臭が辛いのだろう。部屋の中ではニフのうなされた声が聞こえてくる。対して、ルーナは心地よさそうに寝入っていた。
二人とも起きる気配はない。
私はそっと寝台から起きあがり、服を着替えた。
外は塵のせいで何も見えない。時計に目をやってやっと、今が何時なのかを知ることが出来た。時間を確認してから、私は今一度、窓の外を見やった。月の明かりすらも遮断する塵。美しくも無ければ、汚らしくも無いその存在。その塵の輝きをひとしきり見てから、私はそっと歩み出した。
床の軋む音すらも気になるくらい静かな時間だった。
あとは、ルーナとニフの寝息が聞こえてくるくらいだろう。
二人を起こすつもりはなかった。むしろ、このまま気付かれずに事を済ませたかった。私は慎重に部屋の扉を開け、民宿の廊下へと足を踏み入れた。
民宿を営む家族も人間の血しか引いていない。彼らはきっと眠ったまま悪臭に悩む悪夢でも見ていることだろう。
他の客もどうやら動いている様子はない。人間ばかりなのかもしれない。
静まり返った民宿を静かに歩きながら、私はある者の気配を探っていた。その気配は民宿の一室で私を待っているようだった。間違いなく、私を。若干の面倒臭さを覚えながら、私は素直にそこへ向かった。
それは、私達にあてがわれた部屋のちょうど真下に当たる一階の客室から感じられた。その扉の真ん前に辿り着き、私はしばし躊躇った。
本当に開けていいのだろうか。
だが、開けないことには何も始まらない。寝入っていた私を起こしてきたのは間違いなく、《彼》だ。数多にいる客には触れずに私だけに知らせてきたのは何故か。
私は一呼吸を置いて、扉に手をかけた。
施錠はされていなかった。
それどころか、部屋は綺麗に整頓され、まるで予定でもされていたかのように、テーブルと二人分の椅子と、水差し、湯のみが置いてあった。
私は部屋に入り、すぐに扉を閉めた。
用意された椅子に座り、私を待ちかまえていた人物が、憂いを帯びた表情で私を見ている。そんな《彼》に対して、私はまっすぐ視線を向けた。
竜族の青年。ウィル。
昼間、私達に宿を手配してくれた彼が、そこにいた。
彼が私を呼んだのだ。眠っていた私の意識を引きずりだし、ここまで来るように呼び寄せた。恐らく、民宿の主人たちにも告知済みだろう。でなければ、誰にも泊らせないはずの部屋が空いているわけもないし、二人分の椅子と湯のみが用意されているわけもない。
私は小さく息を整え、彼の向かいへと座った。
「お休み中、御無礼を承知でお呼びしたのは他でもありません」
先に口を開いたのはウィルだった。
赤い目が私を見つめたまま険しい表情を取る。
「あなたの力を見込んで、お願いがあります」
赤い――竜の目を見つめたまま、私はウィルの心を探った。どんよりとしたその心情は、すべてこの里に降りかかっている問題のせいだろうと分かる。
「そのお願いって」
私は彼の顔色を窺いながら訊ねた。
「この里に降りかかっている問題に関わるものでしょうか?」
私の問いにウィルはやや目を背ける。
だが、しばらくすると観念したように頷いて見せた。
やはりそうだ。民宿に案内される時に、彼が私に対して見せた視線はこういうことだった。だが、もちろん解せない事がある。どうして私なんかに頼むのだろうか。たまたま里に立ち寄っただけの私を頼るなんて、聖域を預かる者としていささか不用心過ぎるのではないだろうか、と。
そうでなくとも、面倒な事この上ない。
「せっかくですが、ウィル――」
「アマリリスさん。どうか、私の後に付いて来てくれませんか?」
話を遮られ、私は戸惑った。
何を頼むつもりか知らないけれど、極力、面倒事は避けたかった。特に、聖地に関係しているとなれば、私のような放浪者が関わるような問題ではない。力を見込んでかなんだかしらないけれど、何であれ関わらない方がいいに決まっていた。
けれど、何故か、私は言葉に詰まったまま、ウィルにその先を言わせてしまった。
「あなたにお会いしたいという御方がいるのです」
それは、断るタイミングを失わせるに十分な一言だった。
「会いたい御方?」
私は思わず訊ね返してしまった。
ウィルの言い方に若干引っかかったのだ。この里を取り仕切っている彼がそのような形で敬意を払う相手とは誰だろう。
そしてその人物は何故、私に会いたがっているのだろう。
「どうか、私に付いて来てください。我々には時間がないのです。あの御方が興味を持ったあなたが頼りなのです。どうか……」
私は黙してしまった。
ウィルが椅子を降りて床に額をつけたからだ。
呆気にとられたまま、私はしばし返答を忘れた。竜族が、聡明で冷静な竜族の男がここまでしてしまうほどに、事態は深刻なのだろう。
だが、問題とは何だろう。
私に協力出来るような事なのだろうか。
不安と疑問が入り混じり、考えれば考え込むだけ私の思考が混沌の渦へと引きずり込まれていくようだった。
ふと我に返り、私はウィルが額をつけたままであるのに気付いた。
「分かりました」
その短い返答に、ウィルはやっと頭を上げた。
起きあがらないまま、私の顔を見上げている。その目がやや疲れ切っているように見えるのは、気のせいではないのだろう。
私は彼に続けて言った。
「出来ればもう少し、何があったのか説明してください」
「それは――」
と、ウィルは立ち上がりながら言った。
気は急いたままのようだ。私の傍まで歩み寄り、すっと私の手に大きな手をかぶせながら言った。
「道中話します。お願いです、塵が消える前にどうか……」
窓の外では雪のようにしとしとと塵が降り続けている。
私はそれを傍で感じながら、無言でウィルの言葉に従った。