2.三界の神獣
カリスの影を感じながら、私達は人里を目指していた。
何処でもいい。人が住んでいる所ならば、すぐにでも立ち寄りたかった。私一人ならばさほど必要ないけれど、ルーナやニフとの旅にはこまめな立ち寄りが必要なのだ。
以前はそれを煩わしいことだと思っていたような気がする。
けれど、最近はちょっと違う。
いつの間にか、ルーナとニフという存在は、私の中で無視出来ないものになっていた。
僕となったルーナは理由も明確だ。彼女が僕であるという事実は、私の中でも日を追うごとに濃いものとなっていき、度々、まるで彼女のことを自分の腹を痛めて産んだ娘のように思ってしまう事があった。
また、それに拍車をかけるように、ルーナもどんどん忠誠的になっていく。いや、忠誠的と言うのは少し違うかもしれない。彼女は以前よりもさらに甘えてくるようになった。それはまさに、餌付けをした山猫が段々と懐いてくる様子によく似ている。
さて、分からないのはニフの事だ。
どうして私はニフの事をこんなに気にかけるようになってしまったのだろう。助けたことで情が移ったからだろうか。いや、それだけではない気がした。ニフと会話を重ねれば重ねるほど、今はもう殆どが死に絶えたであろう、かつての友人、知人を思い出す。
生き延びれば生き延びるほど。
気付けば私は孤独になっていた。
人狼を殺して欲を満たすだけの日々がただ続いているだけの世界。
本当は、ルーナだって同じかもしれない。僕であるからと片づけるだけでは済まないほどの愛情は、共に過ごす時間が延びれば延びるほど深くなっていく。
彼らと会話をすればするほど、私はカリスを恐れるようになってきた。
私がクロを殺したばかりに、カリスは怒り、私を同じ目に遭わそうと絶えず見張ってくるようになったのだ。
今のカリスにとって、世界は狭く色褪せたものなのかもしれない。私に復讐をするためだけに生きているのかもしれない。
そんな彼女が、ルーナやニフを利用しないわけがない。
これは全て私が、そして、私の性が蒔いた種だ。魔女として生まれた私が負うはめになった原罪の所業。恐れつつもカリスの姿を見かけるために見惚れ、興奮してしまう自分に気付いて、胸騒ぎがする。
もしかしたら私は、生まれてはじめて魔女に生まれた事を呪っているのかもしれない。
「アマリリス、あれじゃないかな?」
ふとルーナの声が聞こえ、私の意識は思考から引き戻された。
林と森の間を抜けると谷があり、突然、中規模の集落が見えるだろうと教えてくれたのは、先日出会った旅の人間達だ。私やルーナの正体に気付かず、ニフとの会話に耽っていた。女っ気のない男達はすっかりニフと仲良くなり、私達にまで親切にしてくれた。私とルーナだけだったら考えられない状況だ。
彼らによれば、その集落はマルの里という名前で、古くからの神話を信じる者達によって継がれている聖域らしい。太古の昔より空、陸、海の三界を制圧してきた獣を祀っているそうだ。
現在の人間達の国では、その獣たちは聖獣として祀られている。人間を守る神々の命を受けて世界を守っているのだと。
だが、本来は違った。
彼らはそれぞれ独立した神獣だった。古くより伝わり、世界を清めてきた獣。人間だけではなく、魔女を含む魔族や、魔物達までもが崇拝し、畏怖すべき存在だ。だからこそ、国を治める人間達もこの信仰だけは変えられなかったのだろう。
――俺達人間を守って下さるのは海の獣リヴァイアサン。
酒が入り陽気になった男の一人の声が思い起こされる。
――その里ではそのリヴァイアサンの守る聖域と縁のある場所って言われているんだ。
リヴァイアサン。海の獣。
彼女が統治しているのだという海を、私は知っている。まだ共に過ごす相手――ヒレンがいた頃に、行ったことがあるのだ。
そこでは魔族が人間と共に町を作って暮らしていた。魔族といっても、魔女とは明らかに待遇が違う。竜族と呼ばれる彼らは、リヴァイアサンの末裔と信じられている。温厚で聡明な性格は人間達にも自然と受け入れられ、非常に長い間、共存が出来ているのだそうだ。
そのリヴァイアサンと関わりのある里。
随分と離れている。ここからだと、林を越え、野を越え、山を越え、森を越え、更に都を越えねば、その海には辿りつけない。
だが、私はなんとなく察していた。
その里がどのように縁があるのか、心当たりがあった。それが正解かどうかは、男達から得た情報では分からなかったが、すぐにでも答えは見つかりそうだった。
中規模な集落。
そう言われている通りの場所だった。
目立つものといえば、あちこちに掲げられている竜の旗。あれこそがリヴァイアサンの姿だ。ここがリヴァイアサンに縁のある場所であることの印なのだろう。
里に足を踏み入れると、すぐに視線を感じた。
生活をしていた人間達が各々の目を私達に向けている。だが、誰も話しかけてこない。私とルーナが人間でないことが分かってしまったのだろうか。
だが、それにしてはどうも変だった。
彼らの不安そうな空気は、私達が足を踏み入れる前から漂っていた気がするのだ。何か、よくないものがこの里を覆っている。そんな気がしてならなかった。
里を進むと、大きな家が見えた。
ここもリヴァイアサンの旗が掲げられているが、もう二つほど別の旗もあった。他二柱の神獣たちだ。大地を治めるベヒモスに、大空を治めるジズ。魔女を含む魔族を守るのがベヒモスで、魔物達を守るのがジズと言われている。
私は妙に安心感を覚えた。
ここだけは何故か、魔女である私が、人間達に許されているような気がするからだ。
そう思ってすぐに、私は心の中で失笑した。何故、私が人間達に許されなければならないのだろう。以前はあれだけ見下していたというのに。
ルーナの小さな声がして、私はふと家に視線を移した。
扉が開かれたのだ。中からは老いた男女、そして、珍しい刺繍の入った服を着た男が誘われるように出てきた。
私は男の姿にはっとした。この里で怯えている人間とは明らかに違う。
彼はすぐに私達に気付き、眉をひそめた。
「あなた達は……」
美しい声で彼は言う。私はそんな彼の姿に目を奪われながら、いまや遠ざかってしまった記憶を辿った。
竜族。その名前と男の姿が結びつくまでに、少しだけ時間を要した。