1.魔女の性
ニフが加わったことで、カリスの動きに若干の変化が訪れた。
美味そうな匂いでもするのだろう。前よりも距離が近くなっているのだ。
実感させられたのは、ニフの生まれ故郷からすっかり遠くまで離れてしまってからのことだった。
カリスは度々姿をちらつかせ、私の連れを狙い続けることを印象付けて来る。人狼である彼女にとって、人間であるニフは食糧にしか見えないことだろう。
有難いことに、ここまで来る頃には、ニフの傷心もだいぶ癒されてきたようだった。
だが、ニフは本当にただの女だった。
剣の使い方も知らないような女。勿論、魔術の類が使えるわけもない。その上、塵の積もる時間になると動けぬほど悪臭とやらに苦しむ。
だが、足手まといにしかならないと思ったのも束の間、思わぬ特技があった。
料理だ。彼女は料理が得意だった。そして、他者と話す能力にも長けていた。上手く距離を取りつつ、人から情報を引き出すのが上手い。ニフが故郷を追われているなんて知らない人間たちは、誰だってニフを警戒しない。
これがもし私達だったら少し違うだろう。
ルーナはともかく、私でさえもあまり他人の話に踏み込むのは怖かった。自信がないわけではないが、もしもちょっとしたことで私の異様さに相手が気付いたら、と思うと冷や冷やしてしまうのだ。
人間の多い場所でのいざこざは避けたい。
しかし、だからといって人間の村や町に一切足を踏み入れないわけにもいかない。あれらの場所に存在する便利なものに一度触れれば、どうしても使用したくなるものだった。
そして、なによりも、他ならぬカリスの存在が脅威だ。いつまでも野宿に頼れば、気が休まることが無い。
生憎、通貨には困らなかった。
私が欲を満たすために殺す人狼達の幾らかは、通貨を所持している事があったからだ。人間に紛れて人間を襲う彼らにとっても、通貨というものは大切なものなのだろう。
カリスも同じように通貨を所持して人間の町や村を利用する事があるのだろうか。
きっとあるだろう。彼女もまた人狼なのだから。
「カリス、っていったっけ」
焚火を前にしながらニフがそんな事を言ったのは、人里から離れた林の中でのことだった。今宵は野宿をするしかない。目指すべき人里は後少しだが、夜の林を抜けるくらいならば、安全と分かったこの場所で動かない方がずっといい。
傍ではルーナが黒豹の姿で寝ころんでいた。
野宿の時はこの姿の方がいい事を既に学んでいた。ルーナの黒豹姿は、その本質が低級魔物であることを隠してくれるくらいには役に立つ。無駄な争いを避けるためにも、わざと猛獣らしく振る舞っている方がよかった。
そんなルーナに寄り添いながら、私はニフを見つめた。
「人狼だなんて。私には全然分からなかった」
「仕方ないわ。それが人狼なのだもの」
私はそう言いながらルーナの頭を撫でた。
言葉の代わりにごろごろと喉を鳴らす音が聞こえてくる。こうしていると大きな猫にでも懐かれているようだ。
「アマリリスは彼女の事も殺したいの?」
ニフの問いに、私は目を細めた。
カリスを殺したい。その言葉はちっとも間違ってはいない。けれど、何故だか私の感情は、その言葉とは若干ずれているような気がした。カリスの全てを手に入れたい。この手でゆっくりと命を奪うことで、欲を満たしてしまいたい。
それは何か美味しいものを食べることに似ている。
言うなれば私は、カリスを食べてしまいたいのだろう。けれど、それは私だけの感覚に過ぎない。カリスにしてみれば、醜い殺人鬼に変わりない。
「そうね」
私はそっとニフに答えた。
「それが私の魔女としての性だもの」
「魔女の性か……」
ニフは呟き、炎の揺らめきを見つめる。
その表情をしばし眺め、私はルーナの身体に寄りかかった。
人間である彼女には理解出来ないだろう。私だって、私以外の魔女の性を理解出来るわけではない。性というものは必ずしも「何かを壊す事」には限らない。限定された性欲だったり、支配欲だったり、執着だったり、睡眠欲や食欲の範疇だったりもする。
もちろん、そのどれもが他者にはなかなか理解されないものばかりだ。
私とかつて行動を共にしていた同じ始祖を持つ魔女は、豚に性欲を掻き立てられるという大地が引っ繰り返っても理解出来ない性を背負っていた。
可愛らしい容姿をしているのに、豚を見ると欲情してしまうその姿は、おぞましいものだった。それも、本人はその事に疑問すら抱いていなかった。だが、他人の事ばかりはいっていられない。彼女もまた、私が人狼殺しに夢中になって半狂乱となる姿をおぞましいと捉えていたことだろう。
彼女は若くして死んだ。
彼女の最期はどうしても忘れられない。
私の制止も聞かず、豚を連れた怪しげな女にまんまと籠絡され、攫われてしまったのだ。すぐに追いかけた私は、それでも彼女を救うことが出来なかった。見つけた時には既に彼女は、冷たい氷のような目をした女によって裸にされ、腹を裂かれるところだった。
真っ赤に飛び散る血。
耳にこびりつく友の悲鳴。
魔女という存在を喰い破り、目を光らせる女の姿。
仇を取ることもできぬまま、ただ、その女が腹を満たして去っていくのを見ていることしか出来なかったのを覚えている。
あれはいつの事だっただろう。
もう、随分と時が経ってしまった気がする。
それでも、生き延びれば生き延びるほど、彼女の終わりを思い出す機会は増えていく。私はいつまで生きているのだろう。そして、どんな死に方をするのだろう。
――ヒレン。
その名前を私は今でも虚しく呟く。死んだ友の名を。
ふとニフの視線を感じた。
目を合わせると、ニフは小声で訊ねてきた。
「もしも性によってもたらされる欲が満たされなかったら、あなたはどうなるの?」
私は笑んでみせた。
「狂ってしまうの」
だが、妙に力は入らなかった。
「人間だって、ずっと睡眠を取らないでいると狂ってしまうでしょう? それと一緒。いつまでも欲を満たせなければ、私は狂ってしまう」
「狂ってしまえばどうなるの?」
「戦えなくなる。精神が崩壊してしまうから、ろくな魔術も使えない。私達の世界は混沌の世界。冷静さを失った時点で、死んだようなものだわ」
私の言葉にニフが目を逸らした。
どうしてだろう。彼女の瞳が悲しそうに見えた。気のせいかもしれない。
目を逸らしたまま、ニフはぼそりと言葉を零す。
「そうなってしまう前に……」
そっと触るのは短剣。せめて身を守るためにと私がニフの為に買い与えた安物の短剣。剣の使い方も分からぬ彼女は、料理の傍ら、毎日のようにその剣との付き合い方を学ぼうとしているのを私は知っている。
「この剣をもっと上手く使えるようにならないとね」
ニフはそう言うと若干の笑みを浮かべた。
「狂ってしまったアマリリスをルーナと一緒に守れるようにさ」
意外な言葉に私は惚けてしまった。
そんな事を言われるなんて思ってもいなかった。人間がそんな感情を私に向けるなんて思ってもいなかった。
私はニフに笑みを返した。
魔女たちの背負う性のなかには、人間に関わるものがある。人間を誘惑する事、人間を奴隷にする事、人間を殺す事、人間を食べる事。
そのどれもが彼女達自身には制御出来ないほど強い影響をもたらす。
もしも私がそんな類の性を持っていたら、こうしてニフと関わる事なんて出来なかっただろう。
その事を想うと、今だけは素直に言えた。
私を創った神でもいるのならば、心の底から感謝したい。私の欲の対象が人間ではなく、人狼であったことに。