8.勇者の末路
息苦しい程の静けさがかえって耳を痛めつける。
しばらくその場に蹲り、そうしてようやく静かだと思っていたその空間に、私の嗚咽が響いている事に気付いた。
ゲネシスはもういない。全ての元凶は土塊になった。巫女と神獣を捕えていた者が滅んだ。そう経たない内に、全ては元に戻るということなのだろう。
これで全てが終わったのだ。終わってしまったのだ。
もう、ゲネシスのことを遠くから想って心を痛めることも出来ない。終わると言う事はどうしてこんなにも残酷なのだろう。
私はようやく訪れたはずの平穏への約束を、素直に喜ぶことが出来なかった。
何故なら、私にはまだ仕事が残されている。
「カリス……」
ゲネシスの亡骸の傍で佇むアマリリス。彼女はもうずっとああして立ち尽くしている。理由は分かっていた。彼女はもう勇者ではない。役目を与えられ、神々に選ばれていた魔女という立場から解放され始めたのだ。
「お願い……立ち上がって……」
彼女の自我は長くは持たないだろう。
心の中では私を殺したくて仕方がないはずだ。
そう、アマリリスには魔女の性が戻ってきている。人狼殺しのアマリリス。残酷な赤い魔女。その肩書と自我が、少しずつ彼女を侵食し始めている。
「お願い……カリス……いますぐ私を、私をルーナの元に送って」
彼女は私の願いを聞き届けた。ならば、今度は私が聞き届ける番だとでも言いたいのだろうか。涙を流しながらこちらに訴えてくる彼女。だが、私は立ち上がることが出来ないまま、視線を返した。
「無理だ」
言葉が出た。気付けば、人の姿にもなっている。
グリフォスが滅んだ瞬間、奪われたものが戻ってきたのだろう。それを噛みしめて、私は仕事を終えた魔女に向かって告げた。
「もう立てない。私を殺したいのなら、殺すがいい」
自分でも恐ろしいほど感情が籠らない。
諦めというよりも、疲れと言う方が相応しい。あれほどまでに募らせていたはずの仇討への意気込みも、もはや何処かへ行ってしまっていた。
全てが終わったら全力で戦おう。一方的に殺せと言うアマリリスにかつて自分で告げたその提案すら、今の私には重たかった。
「話が違う……」
アマリリスがこちらを睨む。
その目は既に、狼を殺していた頃の魔女の目をしていた。
「話が違うわ、カリス……」
よろめきながら此方に一歩向かう。その手に握られている剣ももう、力を失い、ただの剣となっていることだろう。
「約束してくれたじゃない。私を殺してくれるって。クロの仇を取るんだって、楽な死に方はさせないのだって、あなた、言っていたじゃない!」
「……もう力が無い。戦う前に決まった。お前の勝ちだ。誇れ、アマリリス。世界を救った褒美に、かつてさんざん欲しがっていた私の命をくれてやる」
すらすらと言葉が流れていくようだった。
これでいいだろうか、クロ。私は私で頑張ってきたと思うのだ。お前はもしかしたら不満かもしれないけれど、私だってただの生き物。感情と責任と、あとは大き過ぎた戦いの果てに、心がすっかり疲弊してしまったようだ。
しかし、クロが許そうがどうだろうが、アマリリスは許してくれないようだった。
「嘘。嘘をつかないで……カリス」
睨みつけながら、アマリリスは叫ぶ。
「本当は立てるのでしょう? 傷は深くないわ。立って。私を殺して。じゃないと私……私、本当にあなたのことを――」
それでいいと言っているのに。
見つめる私の視線に首を振り、アマリリスは震える手で断罪の剣を手放した。代わりに拾い上げるのは、ずっとゲネシスが使っていた魔女狩りの剣。
「何をするつもりだ……」
思わず立ち上がる私を見て、アマリリスは切なげに笑う。
「ほら、立てたじゃない」
そう言って、刃を自分に向け出した。
「やめろ、アマリリス」
狼の姿で走り寄ると、アマリリスはそっと刃を自分から離した。そのままじっとする彼女から剣を奪うと、暴力性と信頼のようなものが同時に宿った奇妙な目付きで私の姿を見つめていた。
「お願い、カリス。あなたを殺したくない」
アマリリスは言った。
「ずっとついて来てくれたあなたを殺したくない。あなたを殺して生き延びるくらいなら、あなたに憎まれて、殺される方がずっとまし。だから、お願い、クロの仇を討って!」
叫ぶ《赤い花》の身体を人の姿をした手で支えながら、私はまだ迷っていた。
アマリリス。お前はなんて残酷な魔女なのだろう。自分の為に狼狩りを進んでしてきた頃と何も変わっていない。結局は自分の為じゃないか。ああ、それなら私だってそうだ。すべて自分の為だ。自分の為にクロの仇を討ちたかったのだし、自分の為にゲネシスを罪人の身分から解放したかった。
それと一緒。今だって一緒。
私だって、自分の為に、アマリリスを殺したくなかった。
それでも、共には生きられない。アマリリスには魔女の性がある。今もずっと我慢しているはずだ。殺したくて、殺したくて、仕方ないはずなのだ。
苦しむ姿をこれ以上見ていて平気なのか。
アマリリスは私の願いを聞いてくれたのだ。それなら、私もまたその願いを聞き届けるべきではないのだろうか。
黙って腰から剣を抜くと、アマリリスの表情が変わった。
今となってはもうどのくらい前の事だろう。私の目の前でアマリリスが殺した人狼バルバロ。人間の振りをして魔女狩りの剣士をやっていた奴から拝借した魔女狩りの剣。
ずっとこの時の為に持っていたはずだったそれを震えた手で持ち、私はアマリリスを見つめた。アマリリスは、非常に落ち着いた表情を浮かべていた。
「カリス」
そっと囁くように言う。
「これまで、ありがとう。あなたといて、愉しかった」
無駄に苦しめるなんて言ったのはいつだっただろう。
その時の私が見たらきっと驚く光景だろう。そのくらい、私は、無駄なく、アマリリスの命をこの剣の刃に絡め取った。
時間はかからなかった。あっという間だった。思えば長い関係となっていた。永久に殺し、殺される者であるだろうという予想は当たっていた。だが、それに伴う感情は、だいぶ違ったものになってしまっていた。
私の腕の中に収まるアマリリス。与えたのは微かな傷痕だけ。そこから僅かに黒い血が流れ、身体が石のようになっていく。人形のような姿は美しかった。石膏のような肌は綺麗とも思えた。だんだんと毒となっていく肉体を見つめながら、私はもう聞こえないその耳に別れを告げた。
「私も――」
乾いた滴が零れていく。散々憎んだ相手に零すこれは何の涙だろう。
「私も、愉しかった気がするよ」
冷たい頬に触れながら、作り物のような髪に触れながら、私はその骸を寝かせ、傍に寄り添った。