7.そして断罪は行われる
――泣いていた。
四つの足で必死に身体を支える私と、どうにか起きあがりつつも立ち上がる事は出来ないままのグリフォス。もう息すらしていないウィル。
これで動ける者は二人だけ。アマリリスとゲネシスだけだ。
どちらが勝つのか。どちらに勝って欲しいのか。
もう決まっている。
確かに恋をしていた。クロには申し訳ないけれど、ゲネシスに対して私が抱いていたものは恋心に間違いなかった。クロを失って寂しい心を埋めてくれるのは人間であるはずのゲネシスだった。片想いだったし、永遠の愛を誓った伴侶に対するとんでもない不貞だっただろうけれど、これが偽りようのない事実だった。
けれど、私は今、ゲネシスの死を願っている。
そして、私からクロを奪ったアマリリスの勝利を願っている。
――だが、泣いていたんだ。
ウィルに止めを刺す瞬間、ゲネシスの見せた涙が気になった。
彼の心は今、何を想っているのだろう。
「本当に……本当に愚かな人たちね……」
その時、遠くでグリフォスがそんな言葉を吐き捨てた。
もう、立ち上がる事は出来ないらしい。アマリリスにやられた傷が深くて今にも滅んでしまいそうだ。けれど、ゲネシスの勝利を信じているのか、その目の輝きは健在だった。今は見る者をぞっとさせるほど青いその目。かつては――ゲネシスの伴侶として咲き誇る花の時代は、きっと美しいサファイアのようだったのだろう。
勿論、奴は偽物。
本物のサファイアなどではない。
「ゲネシス……あなたを信じているわ……」
しかし、その言葉は、ゲネシスの心に火をつける。散々見せられてきた。クロの霊魂を裏切ってまで抱いたこの恋心は、いつまで経っても片想いにしかならない。その理由は、ゲネシスの心を占めているのがいつまで経ってもサファイアであるからだ。
ああ、きっと私が惹かれた彼の魅力とは、その一途さなのだろう。
この恋が叶わなくたっていい。ただ、彼には真に救われて欲しい。
人狼が抱くにはあまりにも歪な想いを膨らませてしまったのは、罪人に成り果ててもなお感じる彼の心の香りのせいだったのだろう。
だからこそ憎い。その一途さを利用したグリフォスが憎い。
「サファイア……ミール……」
呪われた剣を構えて、彼は故人たちに誓う。その目からは既に涙は引いてしまっていた。
「取り戻そう、私達の日常を――」
取り憑かれているようだ。取り憑かれているのだろう。死霊でもなければ、亡霊などではない。彼は思い出に取り憑かれている。ささやかでも幸せだった記憶が、その重みだけ、彼の思考を狂わせてしまっている。
――アマリリス。
かつて散々憎んだその名前を私は心の中で唱えた。
――頼む、アマリリス。
まるで寛大な神の名でも呼ぶかのよう。
多くの人間たちが自分達を救ってくれると信じている唯一神に縋るかのごとく、私は目の前で断罪を託された一人の魔女の名に縋っていた。
――彼を――彼を断罪してくれ。
唸り声は震え、視界は歪む。
私にわざわざ言われなくとも、アマリリスはそのつもりだろうし、この声は言葉になっていない。そんなことは分かっている。分かっているけれど、頼まずにはいられなかった。
――彼を悲しみから救ってくれ。
多くの不幸が重なったのは何故だろう。
人間を守る神が人間一人ひとりを愛しているのなら、どうしてゲネシスにこれほどまでに不幸を重ねてしまったのかと私は問いたい。
神が本当にいるのなら、どうしてこうなる前に助けてくれなかったのだろう。
嘆いても、嘆いても、この想いは報われない。だから、せめて求めるのはこれ以上、彼がグリフォスに利用される前に――。
――彼を、解放してやってくれ。
ウィルを殺した時に見せたあの涙は苦しみの証だったのだろう。彼自身、もう自分を止められないのだ。
無様な犬のように鳴く私の声が、我ながら不快だった。それでも、こればかりは止められない。止めようと思って止まるものでもなかった。
「解放、ねえ」
遠くでグリフォスが呟いている。
あれはあれで、ゲネシスを解放した気になっているのかもしれない。彼女の解放とは、これまで不幸だった分、欲望にまかせて好き勝手にさせること。しかし、私は違う。私にとっての解放とは、神々の戦いに利用された彼を引きぬくことだった。
これは独善なのだろうか、それとも正しい事なのだろうか。
どちらか理解しかねるが、これ以上、壊れていく彼を見せられるのは耐えられなかった。
「カリス」
アマリリスの声が聞こえてくる。
私に背を向けたまま、その表情はちっとも分からない。だが、その心が定かである事は、声の調子から十分伝わってきた。
彼女は断罪の剣を払い、その意思を示す。
「あなたの願い、確かに聞き入れたわ」
確かに、彼女はそう言った。言葉に出来なかった声を聞いたと言うのだろうか。
まるで人間たちの元にだけ都合よく舞い降りる御使いのようだ。
翼も持たず、殺戮も容赦なくする。随分荒々しい心を持っているようだが、今の私にはそう見えてしかたなかった。
あらゆる神が選んだ《赤い花》の生き残り。
きっと人間を騙したのは人間を守っていた神ではなく、この争いを勝ち抜こうと策を練った悪神だったのだろう。グリフォスのことではない。死霊を遣わし、この世にありもしない甘い蜜の香りを見せびらかしていたのは、神々の作りあげた秩序を壊そうとしている者なのだろう。
それら大きな者の代わりに、二人はぶつかり合う。
アマリリス、そして、ゲネシス。
傷一つなく続く戦いは、体力の上でも技術の上でもゲネシスの方が有利だろうけれど、アマリリスには魔術がある。グリフォスに介入されることの無くなったこの場において、二人の戦いは一見、互角そうにも見える。
けれど、これは神話の戦いだったのだ。
神々に逆らった悪神がどういう存在なのかは分からない。だが、どんなに世界が揺るがされても、どんなに混乱が広がっても、最後に勝つのはその悪神ではないと何かに定められているのかもしれない。
やがて、互角以上に立ちまわっていたはずのゲネシスの剣が弾き飛ばされ、間を開けずに放たれた熱弾の魔術が彼を襲った時に、すでにその結果は現れていた。
尻もちをつくゲネシスの首にアマリリスは剣を向ける。
「大罪人」
アマリリスの姿が、まるで別人に見えた。
「断罪を受け入れなさい」
冷たい声。きっとその眼差しも同じくらい冷えているだろう。そんなアマリリスを真正面から見上げ、ゲネシスは茫然としていた。魔女狩りの剣は遠くへと飛ばされてしまった。ここから抜け出す事なんて不可能だろう。
「――ゲネシス」
絶望するグリフォスの声が聞こえる。
しかし、ゲネシスは――彼は絶望してなどいなかった。
「殺せ、死神よ」
低く、短く、彼は呟いた。
「お前にこの悪夢を覚ませるのなら」
声は震えている。涙はもう見せていない。しかし、これが彼の、大罪人となった彼の、精一杯の言葉だったのだろう。
それを合図に、断罪は行われた。
私はその瞬間から目を逸らさぬよう自分を縛りつけた。確かに恋をしていた男。片想いでもずっと想いを寄せていた男。彼が断罪される。その光景は間違いなく、私が見たくないようなものだった。
流される血の色は黒くはない。断罪の色は赤かった。そして残酷な形をしていた。望みはもうない。かつて私が少しでも想像したような未来は、永遠に訪れないと教えてくれる姿をしていた。
でも、これでよかったのだ。
「ああ、ゲネシス。ゲネシス!」
これでよかったのだ。
その証拠に、グリフォスの悲鳴があがっている。無残に死に、安らかな眠りについていたはずのサファイアから奪った身体がぼろぼろと崩れ始めている。
「そんな、ああ、そんな――」
言葉は途切れ、悲鳴だけが響く。
その後を追うように、彼女の身体は完全に土塊となってしまった。