4.全ての元凶
――こいつさえいなければ。
たった一つの手で全ての行動を抑えられながら、せめてこの心だけは奪われないように、私はグリフォスに向かって唸り続けた。
――こいつさえいなければ、こんな事にはならなかった。
そうして、ただただ恨みを募らせていく。こうでもしなければ、自分の心を保てないような不安があった。まるで脳をかき乱されているかのよう。ただ単に力を奪うのではなく、グリフォスの狙いは別のところにあるようだった。
――忘れるな、こいつは全ての生き物の敵だ。
神々と敵対し、この世界を壊そうとしている悪神の使い。その為に、人間の心を利用した悪しき存在。悪魔と呼んで構わない存在。厄介なのは神々と違って、この世界に介入出来ることだろうか。
こいつがこの世にいなければ、どれだけの者が救われただろうか。
少なくとも、ゲネシスという怪物は生まれなかった。
こいつさえいなければ、ゲネシスはキュベレーに義弟を奪われて嘆くしかなかった哀れな男でしかなかっただろう。不幸な存在ではあるが、あらゆるものに憎まれる大罪人に身を落とすよりは遥かにましであるはずだった。
けれど、ゲネシスは選んでしまった。
差し出されたこの女の手を、嘆きのあまり掴んでしまったのだ。
こいつさえいなければ、ゲネシスは間違わなかった。あれほどまでの命を奪い、嘆きを生みだし、世界の均衡を揺るがそうとするまでの怪物になんてならなかったはずだ。
全てはこいつのせい。
こいつのせいなんだ。
「ねえ、カリス」
優しげにグリフォスが私の鼻先を撫でる。噛みついてやりたい。しかし、何故だか私の身体は意志に反してじっとしたまま。
抗う心は返してもらえていない。
「よく聞いて」
グリフォスは穏やかに私に語りかける。
「あなたは何に縛られてアマリリスに味方しているの? 何が悲しくてゲネシスと敵対しているの? わたしは知っているのよ。あなたはゲネシスに恋をしている。まるで同じ人狼の男に恋をするように、一人の女としてゲネシスに思いを抱いているのでしょう?」
――黙れ。
そう言ったつもりだったが、唸り声に留まった。
言葉が出ない。奪われてしまったのだろう。不思議な事ではない。ここまでしっかりと触れられてしまっているのだから。
文句の代わりに睨む私をグリフォスはじっと見つめる。優しげに微笑んではいるが、その目に浮かぶのは冷淡さと侮蔑だ。
屈辱に怒りすら感じるが、やはり噛みつく事は出来そうになかった。
「別にいいじゃない。この子は――サファイアは死んだの。そして、あなたの夫も死んだ。人狼と人間の恋なんて珍しいわけでもない。ゲネシスが好きなら、ゲネシスと生きるという道もあるじゃない。彼が創りだす新しい世界を見てみたいと思わない? 一人の少年の為だけに生まれる世界がどんなものなのか、あなたも気にならない?」
――ふざけるな。
またしても叫びそうになって、吠え声だけが虚しく飛びだした。
ゲネシスと共に生きる? ああ、そんな選択もあっただろう。誇りも価値観も常識もすべてかなぐり捨ててしまえば、そんな生き方が私にも出来たかもしれない。
そして、その選択はどんなに――ああ、どんなに魅力的だろう。
私にとって旅人でしかなかったゲネシスをからかいつつ話しかけたかつての日々が、どんなに幸せだったか今ならよく分かる。あの日々に近い状況が戻るとしたら、どんなに嬉しいことかなんて想像もできない。
でも、でも駄目だ。駄目なんだ。
この恋は、叶わない。叶えてはいけない。そこにあるのは死んだクロへの罪悪感でもなければ、グリフォスに囚われた亡きサファイアへの配慮でもない。
分かっているのだ。
ゲネシスの心にいるのは今だってサファイアだけ。だからこそ、彼女の忘れ形見のミールを諦めきれず、こんな事になってしまったのだということを。
万が一、彼の想いが神々の力を越えてアマリリスを打ち破ってしまったとしても、彼の創りだす新しい世界に私の入る余地なんてないだろう。悲しいだけだ。辛いだけだ。そう、だから、ゲネシスとは共に暮らせない。忘れてはならない。私は、彼の愛する人を殺した人狼の一人なのだということを。
「頑固な子ね」
言葉にならない私の意図を読み取ったのか、グリフォスが呟いた。
「頑固で、消極的で、馬鹿なケダモノ。そんな理由でゲネシスと敵対するというの? そんな理由で夫を奪った魔女に味方をするというの?」
――黙れ、黙れ。
牙を剥きながら唸る私を見て、グリフォスは嬉しそうに笑う。私の反応がそれほど面白いらしい。だが、面白がらせていると分かっても、抗わないという選択はあり得ない。
クロの仇はきちんと取ると決めているのだ。今だけが異常なだけ。全てが終わったらアマリリスと戦い、そしてクロの為に命を燃やすと決めている。
「アマリリスは約束を破るでしょうね」
グリフォスがそっと私に囁く。
「全てが終わったら、アマリリスには魔女の性が返される。そうなれば彼女はもう勇者ではなくなる。使い捨てられた《赤い花》に残された道は枯れることだけ。大抵はすぐに魔女の性に狂わされ、破滅していくの。そんな時、傍に欲望の対象である人狼のあなたがいたらどうなるかしら?」
そんなこと、今更言われるまでもない。
むしろ、アマリリスが元のアマリリスに戻るのならば、その方がやりやすい。クロを殺した憎き相手が戻ってくるのだ。そんな彼女と戦って殺されるのなら、それはそれで悔いはない。人狼にとって大事なのは覚悟だ。半身を殺した者と刺し違えることが出来る勇気と覚悟こそが、人狼の美徳。結果なんて関係ない。
「素直になりなさい」
その言葉が異様に頭に沁み込んで来る。
語りかけながら犬でも可愛がるように、グリフォスが私を撫でていく。
不快だが、抗うことが出来ない。目を瞑る事すら出来ないまま、私はじっとグリフォスの顔を見つめていた。
「本当はどう思っているの? 愛する人も未来も全てを失ってでもちっぽけで狭い価値観による判断で正しいと信じる道を選ぶのか、もっと可能性に満ちた新しい道に思い切って踏みこんでいくのか、どちらが賢いかしら」
いけない。聞いてはいけない。こいつは敵だ。敵なんだ。この世界の敵であり、私を騙そうとしている者。彼女に従って待っているのは幸福なんかではない。忘れてはいけない。忘れてはいけない。
何度も自分に言い聞かせながら、私は唸り続けた。だが、グリフォスの手から沁み込んで来る熱は、その思考すらも停滞させようとする。
アマリリスとゲネシスはまだ戦い続けている。お互い、決着はまだつきそうにない。




