2.血塗られた王座
扉が開いた途端、きつい死臭が私の鼻を襲った。
現れた部屋は王座。長年、魔女が座っていたのだろうその場所の隣には、誰かによく似ている少年の人形がぽつんと置かれていた。
そして、部屋の中心にて倒れているのは少女。
私たちを此処まで連れてきたあの少女。既に冷たくなっているのは一目で分かった。無事なのは顔くらいのもので、後は言葉に表すのもおぞましい程の姿にされてしまっていたからだ。
部屋の中心は真っ黒に変色した血だまりが出来ていた。
その真ん中に獣のように立ち尽くし、その手に黒く染まった臓器を握りしめ、ぎょろりとした目で此方を睨みつけているのは獣ではなく人間の男。王座に向かおうとしていたのだろうその足を止めて、突然現れた私たちを心の底から憎むような表情で確認する。
「――ゲネシス」
その名を呼ぶと、涙でも零れてしまいそうだった。
何と続けるべきか分からないほどだ。会ったばかりの頃は口にするのも躊躇った名前。人間は人間でしかない。騙して喰う以外で名前を呼ぶなど、人狼の尊厳が傷つくとさえ思っていたのだ。
けれど、今は違う。
あまりにもすれ違い、遠くへと行き過ぎたと思い知らされたあとになって、私はその名前の尊さに気付いた。名前を呼べる関係、名前で呼び合える関係が、どれほど有難いものだったのかを思い知ったのだ。
全ては遅すぎた。
もう私たちの心が通じ合う日は来ないのだ。
それでも――。
「お前を迎えに来てやったぞ」
私の声等届かないだろうと分かっていながらも、私はそう言った。
彼の隣では彼の妻の姿を奪ったグリフォスが迎え入れるかのように微笑んでいる。馬鹿にしているかのようだ。当然だろう。私は愚かな狼だったのだから。
「その心臓を置いて」
アマリリスが一歩進み、冷たい声を放つ。
「私と戦いなさい」
心の底から憎んでいる声だ。
ルーナを殺した事を忘れてはいないだろう。アマリリスが我々人狼に振りまいた絶望とは比べ物にならない規模の絶望をゲネシスは撒き散らした。だが、アマリリスが抱くその恨みは、私と同じものだろう。
「私が勝ってあなたが死ねば、その男の子は孤独になる。だから、その心臓を置いて、まずは私と戦いなさい」
それでも、そこには傲慢さだけではなく、配慮のようなものもあった。
憎むべきはゲネシスだけ。彼の縋る幼き家族ではない。キュベレーの犠牲者であり、罪を負うには幼すぎるミールという少年は、アマリリスにとっては哀れな存在でしかないのだろう。
それをゲネシスは分かっているのか。
分かったとしても、何にも変わらないだろう。ゲネシスだって負けるわけにはいかない。彼は信じている。彼の神を信じている。たとえそれが多くの命を奪うような悪神であったとしても、人間たちにとって悪魔でしかなかったとしても、彼は彼を幸せに導ける者を神と信じて突き進むしかないのだ。
それが大罪人となってしまった者の行方。
そんな彼にとって、アマリリスの忠告など聴く価値もないものだろう。
「アマリリス」
ゲネシスがその名を呟く。
「罪人の私を裁きに来た御使いはお前か」
御使い。その言葉が実に人間らしいと感じた。間違ってはいない。心を壊し続け、ただ大義の為に突き進むだけの勇者として使い捨てられるアマリリスは、確かに御使いなのかもしれない。
けれど、アマリリスは言った。
「私は御使いなんかじゃない」
はっきりと、そして、悲しげに。
「ただ、魔女であることを忘れているだけよ」
断罪の剣を構えながら、虚ろな様子でそう言った。
性を奪われれば魔女はまともになる。そう教えてくれたのはアマリリスだ。だが、まともだという評価は私の勝手なものなのだろう。アマリリスにとっての正常とは、気の狂ったように人狼を追いまわして殺すことだったのだろう。
だがどちらが正しいかなんて、もうどうでもいいことだ。
今のアマリリスが御使いであれ、ただの狂った魔女であれ、断罪の剣を託された勇者には変わりない。そして、ゲネシスの命を奪い、グリフォス――延いては姿も見えぬ悪神の狙いをすべて台無しにすると定められた赤い花に違いない。
アマリリスは勇者となったのだ。ありのままに、利己的に、自分の事だけを考えて生きていればいい当り前の存在ではなくなってしまったのだ。
それが哀れなのかどうかは、また別の話。
ゲネシスが静かにアマリリスの言葉に従う。
彼は彼で信じているのだろう。アマリリスを導く神々が勝つのではなく、自分を導く死霊と悪神こそが勝つのだと信じているのだろう。キュベレーの心臓は黒い血の滴る亡骸に戻され、その身体ごと部屋の隅へと退かされた。アマリリスを殺し、きっと私も殺してから、ゆっくりと家族の再会を果たすつもりなのだ。
そうして忠告に従った後で、ゲネシスはじっとアマリリスの姿を見つめていた。
その脳裏に浮かぶのは何だろう。アマリリスの抱く《赤い花》への憧れか、それとも、彼女の持つ断罪の剣への得体のしれない恐怖か。
或いは両方かもしれない。
「いらっしゃい」
グリフォスがやっと口を開いた。
「せいぜい私たちを愉しませてちょうだい」
魔力を含んだその言葉に、私とアマリリスの足が動く。
それが合図のようだった。