9.出発の朝
過ぎてみれば早いものだった。
カタリナが言った通り、七日で傷はすっかり癒えた。屋敷の中を歩くだけでもややしんどく感じたものだったが、治ってみればこんなにも自分の身体が軽かっただろうかというくらい動くことが出来た。
だが、アマリリスの方は七日前よりもやや表情が硬くなっていた。どうしたのだろうと覗くまでもない。彼女の不満の原因はだいたい察しがついている。此処に来るまでだって、私ではどうしても止められないほどだったのだ。
今のアマリリスはただの魔女ではない。
魔女の性を封じられた代わりに与えられているのは、断罪の役目。
ゲネシスの息の根を止めるその瞬間まで、アマリリスは落ち着かないままなのだろう。そして、役目から解放されれば、魔女の性は再び現れる。これはそういう契約。神々とアマリリスがやや強引に、知らぬ間に交わした取引のようなものだ。
それと分かっていて、アマリリスは抗わない。
かつてヒレンを失ったその時から、或いは、ルーナを失ってしまったあの時から、アマリリスには生きる目的なんてなくなってしまったのかもしれない。
そして、私も。
「アマリリス」
旅立ちの朝、カタリナは年を取らぬその顔に憂いを帯びてアマリリスをそっと抱擁した。
アマリリスは黙って抱かれていた。抵抗はされずとも、アマリリスが抱く内心の怯えはカタリナにもよく分かっているだろう。それでも、カタリナはただの魔女だ。強くとも、長生きしてようとも、性に縛られている以上、変わらない。
カタリナが愛でているのは《赤い花》のみ。アマリリスはそう言っていたけれど、この光景はただ単にかつて養育した教え子との永遠かもしれない別れを惜しんでいるようにしか見えないものだった。
それでも先入観はアマリリスから消えたりしないらしい。
「しばらく見ない間に、君は立派になったね」
カタリナは言った。
「私の中の君はいつまでも幼い頃のままだった。魔女の目で見た時よりも、こうして本当の目で見てみれば、その違いに戸惑いを隠せない」
「カタリナ……」
「私は君を憎んだりしていない。君が自分を責めることはない。神々に選ばれし《赤い花》。君の血が残らないのは惜しいけれど、その分、私は此処でひっそりと《赤い花》を拾い、育て、増やし続けるから」
カタリナ。赤い花を愛でる魔女。
彼女もまた神々の落とした希望なのだろう。
グリフォスにはもう目をつけられているのだろうか。先日、アマリリスを魔女狩りたちに襲わせたように、もしもアマリリスがゲネシスを成敗してしまったら、カタリナもまた襲われる日が来るかもしれない。
それでも、私はこの魔女の強さを根拠のない心の片隅で信用していた。カタリナ。彼女なら、私やアマリリスが想像も出来ない未来まで生き延びるかもしれない。きっと彼女は私のみならずアマリリスが生まれるよりも前から生き続けているのだろうから。
「カタリナ……」
先ほどとは全く違う感情のこもった声がアマリリスの口元から零れ落ちた。
その表情は一度見れば忘れられない。安心している。これまで見た時よりもずっと幼いものだった。目元に涙を浮かべ、抱擁をただ受け入れているわけではなく、自ら縋りついているようだった。ここにいる七日間どころか、アマリリスと憎悪に満ちた出会いを果たして以降、一度も見たことのない類のものだ。
それを見て、私は気付いた。
やっと、アマリリスは本当の意味で、カタリナを養母として受け入れた。いつか自分を殺すかもしれない者ではなく、孤児となったアマリリスを引き受け育てただけの養母として、心から認められたのは今だったのだろう。
「ありがとう」
此処で別れれば、もう会えない。だって、私が殺してしまうから。
「今までありがとう、育ててくれて、ありがとうカタリナ。そして、御免なさい。ヒレンのこと、あなたを信じず愛に気付けなかったこと、全て反省しています」
「――いいんだ」
カタリナはその背をそっと撫でながら幼子に言い聞かせるように呟いた。
「君が自分を責めることはないんだよ」
それはまるで本物の親子のようだった。
いつまでも邪魔せずにいたいものではある。このままずっとこの二人が幸せに暮らせたとしても、それはそれでいいのかもしれない。そう思えるのもきっと、アマリリスがもうかつての憎き女とは似ても似つかぬ者に成り果ててしまったからかもしれない。
容姿だけは変わらないのに、アマリリスは変わってしまった。
怨むべきはなんだろう。
クロを失った悲しみを、私は何処へぶつけるべきなのだろう。
そっと青空を仰ぎ、この近くにあるという霧の城へと想いを馳せた。そろそろゲネシスは辿り着いているのだろうか。キュベレーを殺し、グリフォスに言われるままに世界を闇に包むべく準備をしているのだろうか。
「キュベレーはまだ生きているようだよ」
カタリナが言った。
アマリリスと私に向けて、その魔女の目が妖しげに力を示す。
「あれほど長生きし、一つの小国を滅ぼしたような禍々しい魔女でも、どうやら死ぬのは怖いらしいね」
魔女がいかほどの力を持っているかなんて知らないけれど、まるでカタリナは直接彼女に会ってきたかのように語った。皮肉が籠められているのは、ローザが教えてくれた事件があったからだろう。かつて此処に居た《赤い花》の少年のことが。
「キュベレーを殺してその心臓から滴る血をかけてやれば呪いは解けるだろう。魔術で得た言葉を信じて彼女を捕えるべく城に向かったこともあった。それでも、キュベレーは守りの魔術に長けていたんだ。私は結局、彼女には会えずに終わった。堅い守りで生き延びてきた大魔女。そんな彼女が怯えているのが分かる。殆ど諦めているようだけれど、せめて大罪人が裁かれることだけを願って君を待っているようだ」
キュベレーが待っている。
ゲネシスを呼びこみ、その霧の城こそを決戦の地とするべく待ちかまえている。
「奪われた愛しい子を思い出せば恨みは消えない。それでも、アマリリス、そしてカリス。恐ろしく長い時を生きてきたキュベレーの最期の大仕事を無駄にしてはいけないよ。君たち二人にかかっている。この世界も、巫女や神獣も、利用された死人の魂も、そして悲しみに暮れる哀れなあの青年の事も」
覗かれるように見つめられ、私は震えた。
――ゲネシス。
彼は、永遠の愛を誓った相手ではない。人狼として誇り高く生きるのならば、私の夫はクロだけだ。片割れを失えば生きるのが難しくなるただの狼とは違う。人狼ならば、夫婦の契りは永遠のもの。妻を亡くした夫も、夫を亡くした妻も、いつまでもその相手を偲んで暮らすのが美徳だと今でも信じている。
それでも、ゲネシスは。
彼との逢瀬の日々。喰う為に近づいたのは最初だけ。後はただ会話をするのが愉しかった。クロを失った悲しみを少しでも埋められる相手はゲネシスだった。
これは恋だった。美しくはない第二の恋だった。
悲恋となってしまうのならば、せめて最期まで見届けたい。
アマリリスに断罪されることが彼を救うことであるのならば、私はクロを失った恨みや悲しみも抑えてアマリリスの味方をしたい。
涙がこぼれそうになるのを必死に抑えていると、そっとアマリリスがカタリナから離れ、そして私に言った。
「行きましょう、カリス」
終わりの舞台へ。
これが最期の出発となるだろう。