8.檻のなかで過ごす夜
客間に戻ってみれば、アマリリスがすぐにこちらを見つめてきた。
魔女特有の異質な雰囲気の眼差しに見つめられ、すこしだけ身体が竦んだ。もうしばらくアマリリスから暴力的な魔術を受けた事はないというのに、やはり、以前に覚えた彼女への憎しみと恐怖心は消える事もないのだろう。かつて感じた殺気を思い出し、どうしても恐怖心が生まれてしまう。
その動揺を必死に隠して狼の姿を解いてその場に座り込むと、アマリリスは掛布に潜り込むように隠れたまま、やや小さめの声で訊ねてきた。
「何処に行っていたの?」
幼子のような声だった。
不安げとも言えるだろうか。奇妙なくらいに頼りない。まるで、母親に見放されそうな子供が窺っているかのようだ。
「散策だ」
短く答えるも、アマリリスの表情は変わらない。
「カタリナと話していたの?」
警戒するような眼差し。
彼女はカタリナをまだ恐れているのだろうか。しかし、恐れたとしても仕方ないのかもしれないと思った。
カタリナは幼いアマリリスを金で買い、魔女の性を満たすためだけに囲っていたのだ。確かに養母ではあったかもしれないが、そこに横たわるのはただの慈愛や恩情なんかではない。主従というほうがよっぽど忠実かもしれない。
「そうだよ。それに、ローザともね」
素直に答えてやると、ややアマリリスの表情に硬さがなくなった気がした。隠されないということがそれだけ彼女を安心させるのだろう。もしかしたらアマリリスはカタリナをあまり信用していないのかもしれない。
「あの子……まだ起きていたの?」
「ああ。夜更かしだそうだよ。閉じ込められていたがカタリナが会わせてくれたから会えた。この辺りはどうやら幼い子供を攫う恐ろしい魔女がいるらしいね」
「――キュベレー」
その名を短く呟き、アマリリスは俯いた。
「……ゲネシスの大切な義弟を襲ったのもそんな名前の魔女だったわね」
「恐らく、同一人物だろう。この近くにゲネシスはいる」
「……昔はカタリナの作り話だと思っていたわ。もっと小さな頃から此処にいるヒレンは信じていたけれど、私はもう大きかったから。私を買うために払ったお金は決して安いものじゃなかったの。だから、いつかは母のように心臓を抜き取られてしまうのかもってずっと思っていたの」
「――なるほどね」
壁に寄りかかりながら、私は寝台の上に座るアマリリスを見つめた。
月光を背中から被り、立て膝に頬を乗せるその姿は、何処か妖艶なものがあった。何処からどう見ても年頃の女というだけにしか見えない。だが、あの身体の中には金に取りつかれた者達が求める心臓が宿っている。
母が殺された理由であり、自身がカタリナに買われた理由である心臓。アマリリスがそれを憎んでいたとしても不思議ではない。きっと、《赤い花》を継いで生まれ、人々の欲望に翻弄されてきた魔術師たちは皆、一度や二度くらい通ってきた道なのだろう。
アマリリスは目を伏せて、溜め息を漏らす。
「カタリナは優しかったわ。怖かったわけじゃないの。でも、私はどうして自分が買われたのかを知っていたの。知っていたからこそ怖かった。私たちをどうするつもりなのか分からなくて、信用出来なかったの」
「永久に大事にすると言われても、か?」
「――ええ。だってカタリナも私も魔女だもの。性に操られた魔女は平気で嘘を吐く。対象となるものを捕えて逃がさないためなら何でもする。私だって……私だって、人狼を捕まえるために甘い言葉で騙してきたのだもの」
確かに、魔女の性に囚われていたアマリリスはそうだった。
私たちに対して抱くのは殺害欲求のみ。もしも、人狼狩りの赤い魔女の噂が広まっていない頃ならば、私もまたアマリリスに騙されることがあったかもしれない。噂が広まるまでの間に狩られていった人狼の多くは、きっとアマリリスに殺されるなんて可能性を少しも考えずに死んでいっただろう。
それはアマリリス自身がよく知っている。魔女というものはそういうものなのだと分かっているからこそ、アマリリスは恐れた。自分自身が魔女の性の対象になっているという恐怖に耐えなくてはならなかった。
「カタリナも私の母を殺した人たちと同じ。《赤い花》しか見ていないの。私はただの入れ物。でも、感謝はしているわ。だって、彼女がいなかったらもっと酷い目にあっていたかもしれないもの」
複雑な心境だ。
恐れと嫌悪に似た何か、そして感謝と愛にも似た何か。それらが渦巻いているのだろう。アマリリスが魔女の性というものをよく知っていたからこそ抱く葛藤。
安定した家族愛が欲しかったのかもしれない。だが、私には想像程度にしか受け止められない。だって、私は、その当然の愛を知っているから。
愛に飢えるアマリリス。愛を知らぬアマリリス。しかし、彼女に同情なんてしてはならない。だって彼女は狼殺しの魔女なのだ。この御役目から解放されたその瞬間に、私に対する見方ががらりと変わってしまう。
そうなる前に私はこの牙を血で染めなくてはならない。
愛するクロの仇をとるために。それが人狼としての当然の責任。そのためのはずだった。そのためだけのはずだった。
けれど、今は。
目的がやや変わってしまった。
私は頼まれたのだ。アマリリス本人に、役目が終わったら殺してくれと。終わらせて欲しいと頼まれたのだ。
「カリス」
ふとアマリリスに話しかけられ、俯き気味だった視線を正面へと戻す。寝台からこちらを覗くその双眸とぶつかっても、かつて感じたような殺意はどうしても感じられない。
そこにいるのは、過去のしがらみに絡みつかれながらも必死に耐えようとしている哀れな女の姿だけだ。