7.人食いの話
わざわざ説明するまでもない。
私がローザに語ったのは、人狼の話でも、その他の人間たちに害を成す魔物や魔族の話ではない。言い聞かせたのは、ただ一人、死霊の話。グリフォスという悪魔に取りつかれた死人の話だ。
ローザにも分かりやすいように、慎重に、私は語った。ローザは寝台の上できちんと両手を膝の上に揃えたまま、私の話を真面目に聞いていた。
おとぎ話として、だろうか。
さすがに現実と作り話との区別は出来る年齢だろう。
それでも、私の言葉に含まれる些細な緊張感だけは、彼女にもしっかりと伝わってはいるらしい。そうと分かる表情をしていた。
「……どうして」
語り終えると、ローザは訊ねてきた。
「どうして、神様はそんな存在を作ってしまったの?」
純粋に疑問に思ったのだろう。
或いは、人間たちのように神を万能なものだと思っているのか。
「神々でさえも立ち向かえぬ事はあるんだ。もしもお前がカタリナの言いつけをやぶって一人きりにでもなったりしたら、人食い悪魔は忍び寄ってくるだろうね。お前の好きなものを見せて、愉しい気分にさせて、気を許した所を裏切る。痛い思いをして心臓を奪われたくはないだろう?」
「――本当に、人食い悪魔なんているの?」
「いる。もうすでに数え切れない人々が奴の犠牲となっている。神々にでも止められないほど厄介な怪物だよ」
過激かもしれないが、そのくらいは聞かせておくべきだ。
もしもアマリリスによって計画を阻止されれば、グリフォスは次なるゲネシスを探すだろう。その前に、かつてヒレンを捕えた時のように、《赤い花》を持つものを手当たり次第に襲うかもしれない。このローザだって同じ。《赤い花》を宿して生まれてしまった以上、他人事では済まないのだ。
「――カタリナの傍にいれば、大丈夫なのよね……?」
ローザは不安げに窺ってくる。
馬鹿正直に言えば、それだけじゃ駄目だろう。けれど、私の今の目的はローザという花に、危険を教えるという事だけ。
「ああ、大丈夫。カタリナの言う事をよく聞いて、心配をかけてはいけないよ」
かつてのアマリリスのように、自分勝手な行動は慎むように。
出来るだけ怖がらせないように気を付けながら、私はローザを見守った。ローザは落ち着かない様子で身を崩し、膝を抱くと、ゆっくりと頷いた。
「勿論よ。カタリナの傍を離れたくないもの」
自分の気持ちを疑うことも知らない声。
それはもしかしたら今だけのものかもしれない。数年後も、十年後も、同じ気持ちでいるものだろうか。もしも自分がカタリナの魔女の性によって囚われた身であったのだと知ることがあれば、その時、ローザは何を想うのだろう。
だが、そんな未来の予想はまとめることなく思考の果てにしまい込んだ。
私には果てしなく遠い未来に思えたからに過ぎない。
「あたし、そろそろ寝なきゃ。カタリナが心配しちゃうわ」
無邪気な様子でそう言われ、私は思わず失笑した。
「そりゃ、いけないね。じゃあ、寝るといい。また朝にでも会おう」
そう言って影へと逃れると、ローザもすぐに寝台に横になった。
その様子を見守ってから、私はローザの部屋を抜けだした。カタリナに許可を貰わねば、再び入る事は出来ないかもしれない。
振り返ってみれば、この中にいる哀れな花の気配がして、何故だか無性に寂しい気持ちになる。彼女はこれからどのような人生を歩むのだろう。そんな、何処までも他人事な疑問が頭を少しだけ過ぎり、そして消えていった。
ふと静けさに包まれる廊下の匂いを嗅いで、別の気配を感じ取った。
カタリナ。この家の唯一の主人である彼女は、そう離れた場所にはいない。何となく、呼ばれているような気になるのは、彼女の放つ魔力のせいだろうか。
そのまま素直に引き寄せられるままに歩くと、不思議になるくらい彼女の居場所はよく分かった。
ローザの部屋の斜め向かい。
此処もまた強い魔力を感じたけれど、私の存在を拒むような類のものではなかった。きっと、カタリナがそうしているのだろう。
影に吸い込まれたまま壁を抜けると、待ちかまえていたかのようにカタリナは寝台から身を起こして此方を見た。
私は影に潜んだままだ。だが、人間の目は幾ら誤魔化せたとしても、あらゆる魔女の目は誤魔化せないらしい。
「ローザと何を話していたの?」
姿を現すか迷っているうちに、カタリナの方が口を開いた。
私は大人しく影から這い出て、そのまま腹這いになって無防備な魔女の姿をじっと見つめた。見ているだけなら村や町にいる人間の女と何も変わりないというのに。
「つまらないことだ」
溜め息混じりに私は答えた。
「あっちがこの辺りの魔女の話をしたから、私も人食い悪魔の話をその場で作って聞かせてやった。《赤い花》を狙っている悪魔だ。用心するように良く聞かせておいたぞ」
「変わった狼だね。まあ、そうじゃなかったらアマリリスの傍にはいないか」
そう言って、カタリナは掛布を引き寄せる。
胸元まで垂れる炎のような赤毛、寝巻より見える白い肌、そして憂鬱そうな赤い目が、夜目の視界の中で際立つ。
その表情の暗さは、グリフォスとアマリリスから来ているのだろう。
「見ていた、と言っていたな」
私はそっと切り出した。
「アマリリスの友――ヒレンが死ぬ所をみたと」
「魔術の目であの子たちの事は見ていた。心配だったから、かな。でも、正直言うと、機会を窺っていたんだ。私の力の及ぶ場所に足を踏み入れた瞬間、魔術をかけて取り戻すために」
「でも、横取りされたんだな。グリフォスに」
断片的にだが聞いた。アマリリスの見ている前で衣服を脱がされ、壮絶な痛みに耐えながら喰い殺されていった魔女。どんな人物だったかなんて知らない。でも、未だにアマリリスの心に影を及ぼしているのはよく分かった。
ヒレンが死んだことで、アマリリスは更に歯止めが効かなくなった。自暴自棄になって大地を放浪し、人狼殺しに明けくれたのだ。
もしもグリフォスがヒレンを殺さなかったならば、アマリリスも限定的な場所で静かに狼狩りをして暮らしていただろう。そうであれば、クロはもしかしたら死ななかったかもしれない。
「グリフォス……」
ふとカタリナが呟いた。
「人間の女の身体に取り憑いていた。未熟な魔女なら見抜けやしないでしょう。私だって、怪しいということしか分からなかった。でも……まさか食べられてしまうなんて」
壮絶なその光景はカタリナの心にどう影響したのか。
自らの性のために囲い育てた花の望んでもいない末路。それでも、カタリナは狂わなかった。
「ヒレンはもう助けられない。だから、残ったアマリリスだけでも守ろうとした。愛情だけではない。いつか、アマリリスが生きて私の元に戻って来るようにと考えてのことだ。でも、彼女もまた放浪してしまって、なかなか戻ってきてはくれなかった。やっと戻ってきたと思えば、もう私の手の届かない花になってしまっていた」
「お前は此処でローザを大事にすればいい。《赤い花》と共にいれば満たされるのだろう? アマリリスのことは諦めろ。お前の代わりに私が最期まで付き添ってやる」
そう言うと、カタリナはふと私の顔を見つめてきた。
真っ赤な目は血のようだが、奇妙なくらいの美しさを感じる。暗闇の中からこうして見つめられていると、ぞっとするくらいの色気が漂っていた。
「君は何故、アマリリスに寄り添っているの?」
唐突に訊ねられ、私はふと黙ってしまった。
別に答えを渋る理由なんてない。それでも、何故だか私は慎重に、彼女の質問に答えようとしていた。
「――あの女は夫の仇なんだ」
ようやく出たその言葉を、カタリナは静かに受け止めた。
「全てが終わった後、狼の妻としての責任を果たすためにもあの女は殺さねばならない。命を賭けてぶつからねばならない。それだけのためだ。殺すか、殺されるか」
そんな私の答えを聞いて、カタリナが不敵に微笑む。
あの目を前にすれば、人狼の言葉なんて意味を成さないのだろう。
「役目から解放されたアマリリスにあなたは敵うだろうか」
率直な疑問を口にされ、今度はこちらが押し黙った。
目を逸らしても、赤い目がこちらを見ている感覚は変わらない。寝台とこちらは距離があるというのに、まるで密着されているかのような緊張感が漂って、何処となく落ち着かなかった。
「果たして、あなたは本当にアマリリスを殺せるのだろうか」
先ほどとは違うものを含んだその言葉に、やや不愉快な気持ちが生まれた。