1.不穏な町
その町に足を踏み入れた瞬間、塵なんかよりも不吉な臭いのする風が私達を出迎えてくれた。
塵が晴れたせいもあって、町ではすでに沢山の人々が行き交っている。だが、その合間を縫うように、無視する事の出来ない風が吹き荒れているのだ。
どうやら人間達は気付いていないらしい。
彼らが気付くのは、いつだって己の身に危険が迫った時だけだ。
「アマリリス……奇妙な臭いがするよ」
手を繋いだままルーナが私を窺ってきた。
私はその手を握り返して、そっと告げた。
「そうね。でも、変に気にしては駄目よ」
忠告に素直に頷いて、ルーナは町を見つめた。
既に数名が私達の姿を振り返っている。しかし、大して気にも留めないらしい。
ここは都会へと向かう者たちの多くが通る事となる、活気あふれる町。余所者なんて珍しくもなんともないのだろう。
「お姉さん……」
ルーナの手を引いて歩み出そうとした瞬間、背後から声をかけられた。
振り返ってみれば、そこには若い娘がいた。後ろには仲間と思われる少年と青年がいる。私達を興味ありげに見つめている。
「旅の方ですよね? その人は妹さんですか?」
町娘が訊ねてくる。ルーナが密かに警戒しているのが伝わってきた。
「そうよ」
私は短く答えた。
必要最低限の事しか言うつもりはない。その真意を読みとったらしく、町娘は私を見つめて声を潜めた。
「それなら、気を付けてください。今、この町はとても荒れているんです」
「荒れている?」
何も知らないふりをして聞き返すと、町娘は頷いた。
「吸血鬼がいるんです。妹さんと同じくらいの年頃の若い娘を襲っています。だから、この町に留まるのなら気をつけて。よかったら、安全な宿を紹介しますよ」
町娘の誘いにルーナが喰いつきそうになった。
だが、私はそれを遮って町娘に答えた。
「忠告有難う。でも大丈夫。せっかくだけど、宿は自分たちで捜すわ」
一瞬だけ、町娘の表情が変わった。
だが、私は気にしないふりをして、彼女達に背を向けた。ルーナが私を窺っている。だが、今はまだルーナに説明している余裕はない。それを察して、ルーナは黙ったまま私に従った。
人々の波に入りこみ、町娘達から遠ざかったと感じた所に来てから、ルーナはようやく我慢を解いた。
「アマリリス」
ルーナの視線を横から感じつつ、私は前だけを向いていた。
「さっきの人の話、もっと聞かなくてよかったの?」
「いいの」
私は答えた。
「だって、あの人達、人間じゃなかったもの」
「――え?」
意外そうなルーナの反応に、私は思わずため息を漏らした。
カリスに下級魔物と呼ばれただけあって、ルーナはやはり気付いていなかったようだ。人間よりも危険に敏感なわりに、巧妙に隠された魔物の気配にはなかなか気付けないらしい。
「あれは魔物よ。吸血鬼でもなさそうね。低俗な人食い鬼の一種でしょう。あなたの匂いに釣られて近づいてきたのだと思うわ。ついて行けば、人気のない所で餌にされていたかもね」
「そんな……こんな町中に?」
「たくさん人間の住む町だからこそ、すぐ近くに人に化ける魔物が潜んでいるものなの。人間達に気付かれずにひっそりと暮らしている。そうね、あなたのように人に危害を加えない者も中にはいるかもしれないわね」
そういった者は人間に上手く溶け込み、場合によっては人間と血が混ざることがある。
それが魔族の始まりだと言われていた。私達のような魔女も、元々はそうして生まれてきたらしい。
「ともかく、ここは思っていたよりも面倒臭そうな場所ね」
私はルーナの手を引きながら周囲を探った。
人々の気配の中に、複数の魔物の気配がする。
さきほど近づいてきた輩以外にも、彼らが言っていた吸血鬼とやらの強い気配も確かにこの町に存在しているようだ。ルーナにも分かる奇妙な臭いの元は、この吸血鬼だろう。
「……カリスを誘き出すのは難しいかもしれないわ」
「ねえ、アマリリス。町って怖い所だね。あまり留まらない方がいいんじゃないかな?」
ルーナは不安げな声をあげる。
私はしばし考えた。
ここに留まらずに通り過ぎることもできる。けれど、そうすれば野宿は避けられない。カリスを誘き出す事を考えれば野宿でもいいが、不意をつかれればまた、私達の方が追い詰められてしまう。
それに――。
「アマリリス?」
ルーナの問いかけに応じようとした時、私の意識を攫うような風が吹いた。その風に乗せられている気配は、人狼のもの。
カリスではない全く別の人狼のものだった。
「ここに留まる利点もありそうだわ……」
私は気配を探った。
吸血鬼やら人食い鬼やらがいるこの町で何をしているのだろう。カリスではない人狼は確かに人々の間に隠れている。私達の訪れにももう気付いているだろう。もしかしたら、あの人食い鬼たちと同様に、ルーナの匂いに気付いているかもしれない。
人狼の気配が私の歩みを引き寄せる。
カリスを殺せなかった分、欲求は解消されていない。
今は町の人間共の目があるけれど、もう一度塵でも降れば、すぐにでも迎えに行きたいくらいだ。
「大丈夫よ、ルーナ」
私は人狼の気配を探りながらルーナに告げた。
「あなたは宿に隠れていればいい」
意識はすっかり人狼の方に向いていた。