9.塵の世界
カリスの気配が消えて暫く経った。
平原を渡ろうとすると、再び塵が降ってきた。
私はルーナの手を引いたまま、塵を見上げていた。白い塵は雪のような見た目をしているが、どこか埃っぽい。相変わらず、人間たちが毛嫌いする臭気なんて分からないけれど、塵の影響で魔物達が若干動きやすくなっているのは感じ取れた。
ルーナは塵を見上げ、楽しそうに笑う。気をつけていないと、ついさっきの事を忘れて、私の手を離れてしまいそうだった。
塵を嫌がらないということは、やはりルーナには人間の血が流れていないのだ。
私はそんな事実を静かに噛みしめていた。
「アマリリス!」
私の名を呼ぶルーナは目を輝かせて塵を見上げていた。
人間達に毛嫌いされる白い塵は、既に平原を白く染めていた。
「綺麗な塵だよ! すごく気分がいい! 走り回りたいくらい!」
この塵は、魔物の為の塵だ。
この世界が人間と魔物の両方の為のものである証。塵が降っている間は魔物の為の世界が広がり、塵が止み日光が射している間は人間の為の世界が広がる。
ルーナは魔物の為の世界を嬉しがっている。
もしかしたら本当は太陽の光も嫌いなのかもしれない。嫌いだけれど、私の僕であるから、不平不満を言わずについてきているのかもしれない。
私はルーナの手を引いて、町のあるはずの方角を見つめた。
「行こうか」
声をかけるとルーナは首を傾げた。
「これから何処に行くの?」
「平原の向こうにある町よ。人間達がいっぱいいる」
「でも、町って魔女狩りの剣士たちもいっぱいいるんじゃないの?」
「そうね。でも、大丈夫。捕まったりしないわ」
特に自信があるわけではなかった。面倒事だって御免だ。
けれど、魔女狩りの剣士を恐れて何もしないくらいなら、カリスを捕えるための行動をしたかった。
町には人狼にとって美味しそうだと思える人間達が沢山いることだろう。そう、村よりも町は人が多い。子供や女性、若者といった人狼が特に好みやすい者達も大勢いるはずだ。
何処かに潜むカリスを誘き出すにはもってこいの場所。
人狼という人間達にとって危険な魔物を誘いこむ事に対しての罪悪感は全くなかった。
この町の人間達は運が悪かっただけなのだ。
「アマリリス」
ふとルーナが私を見上げた。
塵を頭から被りながら、獣のように輝く目を私に向けている。
「危ない事はしないでね」
純粋な獣の目は、心から私を心配しているようだった。
私はそんなルーナに微笑みかけ、歩み出した。
白い塵の上に足跡が残る。けれど、この塵の足跡もやがては消えていく。魔物の為の時間が終われば、塵は跡形も無く消えてしまうのだ。
そうして、人間達が活動できる世界が広がり始める。
「ねえ、アマリリス、知ってる?」
再びルーナが口を開いた。
大人しくついて来るだけではやはり満足出来ないらしい。
「この塵はね、魔物の神様からの贈り物なんだよ」
ルーナは得意げに語る。
「昔、人間の神様が世界を人間寄りのものにしちゃった時に、世の魔物達が生き辛くなってしまって、そんな魔物達を憐れんでくださったのが塵なんだって」
「誰にそんな話聞いたの?」
何気なく問いかけてみると、ルーナは首を傾げた。
「誰だったかな。でも、そうだって知ってる。覚えていないけれど、そうなんだよ」
「覚えていないほど昔に教わったのね」
「うん。だからね、この塵が降っている間はわたしも楽しくなっちゃうの」
「そう。でも、手を離れては駄目よ。この塵で喜ぶのはあなたよりずっと強い魔物達も同じなのだからね」
私の忠告にルーナは笑顔で頷いた。
分かっているのか、いないのか。少々信用ならない頷きだけれど、ひとまずは言う事を聞いてくれればそれでいい。
私はルーナから視線を逸らし、周囲の気配を探った。
どうやらこの平原には弱々しい魔物しかいないらしい。普段から人通りが多い為だろうか。この中で警戒すべき魔物がいるとすれば、ちらほらと現れたり消えたりを繰り返しているカリスの気配くらいだろう。
やはり、カリスは遠くまで逃げたわけではない。
機会を窺って、私とルーナの命を奪おうと目を光らせている。
私に狩られるだけの存在だったはずなのに、いつの間にか、私が彼女から逃げているようになっている。
けれど、別に腹が立つわけでもなかった。
焦らされれば焦らされるほど、快感に対する期待は高まっていく。それを考えれば、カリスを手にするまでは、代用品でしかない名も知らぬ人狼達の肉体で満足しておこうという気になる。
「ねえ、アマリリス」
一瞬、ルーナが私の手を離れそうになって、私は慌ててルーナを引っ張った。
「なに? ルーナ」
「町についたら宿に泊るの?」
ルーナは立ち止まり、私を振り返る。その目には期待が混じっているような気がした。
「そうよ。宿には泊ったことある?」
「ある……のかな? 覚えてないや。でも、宿って綺麗な所なんでしょ? わたしが住んでいた小屋よりも」
「そうね。あの小屋よりも綺麗で広々としている」
「楽しみだなあ。ずっと野宿だったもの」
ルーナはそう言って目を細めた。
宿に泊まるのには理由がある。カリスが寝首を掻きづらくなるからだ。
町の施設で問題を起こせば、それだけ人が集まってくる。人口の少ない村ならばまだしも、町の宿屋でそんな事が出来るのは闇夜に紛れられる吸血鬼くらいのものだ。人狼は違う。いくらカリスでも、宿に泊まる私達を不用意に襲う事は出来ないだろう。
代わりに私も魔術を使いづらくなるし、ルーナを変身させることも出来なくなる。
けれど、それは別に大したことではない。どんなに人が多い町でも、人の目が届かない場所は幾らでもある。魔力を為にためれば、大勢の人の目を盗んでしまう事だって出来る。それが魔女というものなのだ。
ふと、塵が止んだ。
ルーナが空を見上げ、つまらなさそうに溜め息を漏らす。
足元の塵も段々と消え、人間の為の世界に戻ろうとしていた。
「ほら、ルーナ」
私は軽く落ち込むルーナに声をかけた。
「見えてきたよ」
町はすぐそこだった。