7.聖なる山の景色
言葉の一切交わされない広々とした寂しい世界の中で、私は一人きりで歩いていた。
正確には一人きりなんかではないはずだ。私の影には絶えず何者かが蠢き、何処からともなく見られているような感覚に陥るのは、気のせい等ではないだろう。
けれど、それらが私に一切関わろうとしてこない内は、孤独で間違いなかった。
目指しているのはジズという聖獣が住まう山。
魔物を守護しているとされるその聖鳥は、魔物を悪しき者と解くはずの祭司さえも敬うほどの存在だった。
ジズがどんな姿をしているかなんて知らない。
話にあるのはただ大きな鳥であるという事だけだ。その姿が見える者も殆ど居ないらしい。彼の血を直に引いている魔族や、彼の下に捧げられる生贄の巫女のみ。それが本当なのか確認する術すら、我々人間にはないのだ。
私が目に出来るのは、ジズと繋がっている空巫女だけだろう。
だが、グリフォスは違うらしい。悪魔と呼ばれ、自らを死霊と名乗る彼女は違うらしい。
得体の知れない悪魔に憑かれたまま聖地に踏み込む罪は、いかほどのものなのだろう。
「あと少しで、嫌でもそれが分かるわけだな……」
一人呟きながら、私はそっと座り込んだ。
朝起きてから歩き通しだった。山はいつも私の前にそびえ立っているが、その距離が縮まる速度は悲しいほどにゆったりとしたものだ。それでも少しずつ狭まってきていることが分かることがせめてもの救いだろう。
あと、一日か、二日。少なくとも、今日中に辿り着くと言う事はなさそうだ。
そんな予想を頭に叩きこみながら、私は一向に立ち入らせてくれない聖山を眺めた。山を登るのも一苦労かもしれない。だが、そちらは全く苦には感じなかった。
あの山の祠にジズがいるのだ。
ジズをこの目で見なくてはならない。そして、やらなくてはならない事がある。そう自分に言い聞かせるだけでも、今、こうしてひと休みしている事さえも我慢ならない。早く行かなくてはという焦りが、疲れて動けないはずの私の身体を疼かせるのだ。
「焦る必要はないわ」
その声は唐突に聞こえてきた。
視線を動かしてみれば、私の傍にはグリフォスがいた。顔を見るよりも先に、その手が伸びて私の頬をそっと撫でて行く。暫く記憶から遠ざかっていたサファイアの温もりは、違和感無く私の肌に沁み込んでいく。けれど、何かが違う。この温もりは、限りなくサファイアのものだが、ある一点で絶望的にサファイアではない。
抜け殻となった身体に何か違う魂が入っているかのよう。
それでも、紛れもないサファイアの匂いを感じると、私の警戒心はあっさりと解けてしまうのだから、我ながら嫌になる。
「恐れずとも、獲物は逃げられない」
獲物。それが何を指しているのか、私は知っている。
「あの山を越える時、あなたは一歩、ミールに近づけるの」
「剣を赤く染めて、か」
頭に浮かんだままの言葉を漏らすと、何故だか悲しくなってきた。
ミールを取り戻したい。それは私の願いだった。その願いを叶えるための感情以外は、全て捨ててしまったつもりだった。
それなのに、何に対して私は哀しみを感じているのだろう。
「そうよ」
サファイアの身体で、サファイアの声で、グリフォスは私の手に優しく触れた。
「あなたは任せればいい。この剣はあなたの心に応え、必ずその悲願の達成へと導いてくれるわ。わたしの力を信じて」
「ジズを……」
言いかけて、私は口を閉じた。
このやり取りも、カリスは見ているかもしれないのだ。そう思うと、何故だか微かな恐れを感じたのだ。これから先の事を、カリスに阻まれたくはない。
だが、そんな私の微かな願いとは裏腹に、声は響いた。
「ジズの膝元で何をするつもりだ」
低い声がしたと思えば、まるでその声に導かれたように白く濁った汚らしい塵が降り始めた。私の顔は自然と歪み、人間の器に縛られたグリフォスも身を強張らせる。
そんな私達を憐れむように見つめているのは一匹の人狼。白く染まっていく世界の中で、ぽつんと黄金の輝きを放つ人物が輝く双眸で私達を睨んでいる。
もしもこれが塵ではなく雪であったら、あまりの美しさに息を飲んだだろう。
「カリス……」
悪臭に耐えつつ、私はどうにかその名を口ずさんだ。
塵の中をカリスは平然と歩む。魔物にとっては、日光を気にしなくていい貴重な時間であると聞いているが、本当のようだ。
カリスはある程度の距離を保つと、そこで立ち止まって私ではなくグリフォスの方へと視線を移した。
その目には殺気と敵意しか宿っていない。
「その青年を騙して何をさせるつもりだ」
カリスの問いに、グリフォスは表情を変えない。
サファイアの身体を引きずる彼女も、この塵の悪臭には耐えられないらしい。グリフォスは口を閉じたまま、睥睨するようにカリスを眺め続けていた。
それを見て、カリスはやや笑みを浮かべた。
「どうした? 塵が苦しいのか?」
からかうようにそう言うと、今度は私へと目を移した。
「人間、そいつの言う事を信用してはいけない」
昨夜、私に告げたのと同じ事を彼女は言う。
「従ったところで、本当に義弟を取り戻してくれるとは限らない。下手をすれば、一生かかっても償いきれない罪を背負わされるだけで何も叶わないかもしれないのだぞ」
私の心を掴もうとカリスの獣の目が光る。
しかし、その前に、ずっと黙っていたグリフォスが口を開いてしまった。
「そんな事はない」
塵の悪臭に耐えつつ、グリフォスはどうにか笑みを作る。
「わたしは悪魔と呼ばれているけれど、約束を破る悪魔ではないわ。ゲネシスの願いくらい叶えられるから、私は彼を導いているのよ」
「嘘を吐くな」
カリスは強い口調でグリフォスを責める。ただし、その足は立ち止まっている地点から一歩も動こうとしない。
「全て、巫女を狙っての事だろう? アマリリスを出し抜くために――」
「馬鹿な人」
カリスの言葉を遮って、グリフォスは笑いだした。
丁度その時、塵が突然止んで、眩い日光が現れた。急な強い日差しにカリスが少々怯む。その隙を狙ってか、グリフォスはさり気なく歩きだした。
「そのアマリリスはあなたの大切な人を奪った魔女なのでしょう?」
グリフォスが近づいている事に気付いて、カリスは慌てて後退する。恐がっているらしい。その事は見ているだけの私にもよく伝わってきた。
「最愛の人の仇に力を貸すなんて馬鹿な事はやめて、素直に恨みを晴らせばいいのに」
カリスは何も言わずにグリフォスを睨んだまま、素早く狼の姿に代わって更に距離を取った。グリフォスはそれを追わず、立ち止まってただ視線で追っただけだった。
「もっと正直になればいいのに」
グリフォスはカリスにそう言いかけると、名残も惜しまず私の元へと戻ってきた。
少し離れた日陰となっている場所より、狼姿のカリスが私達を見つめている。獣の顔に浮かぶ表情が何を現しているかは分かり辛い。
ただ、その眼差しだけはまごついているように見えた。
「人間……」
カリスの獣の目が真っ直ぐ私を見つめている。
「私の声は、どうしても届かないのか……?」
カリスはそう言い残すと、影の中へと吸い込まれるように消えた。
私の耳に残ったのは、切なげなその言葉の余韻だけだった。