8.目くらまし
カリスが私の身体に爪を喰い込ませる。
その瞬間を私は待っていた。
溜めこんでいた魔術を解きはなち、カリスの身体へと浸み込ませる。
その途端、カリスの注意は逸らされた。喰らいつくべき私の身体ではなく、宙へと視線を取られ、茫然自失となっていく。その手からは次第に力が抜けおちていき、やがて、私の身体は解放された。私が逃れたのに気付き、すぐに手を伸ばすが、その手は私とは全く違う方向へと伸びていく。
私は音を立てずにルーナに近寄り、すぐにその手を握った。
「待て……!」
意識を乱されながら、カリスは私の姿を捜す。
カリスには私の姿が見えていないのだ。今、彼女が見ているのは幻術。彼女にとって、おぞましい記憶のものが幻となって、自我を壊そうと取り囲んでいる。そんな中で、カリスはどうにか自我を保ち、私の存在を捉えようとしていた。
息を殺すルーナの手を引いて、私はそっとカリスから距離を取った。
ルーナは私に従い、音を立てないように歩む。
相手が人狼でなければ、このまま距離を取って逃れることが出来るだろう。だが、相手は人狼だ。それも、私達の事を知っている人狼。冷静さを取り戻せば、すぐに嗅覚に頼るという術を思い出す。
そろそろカリスもそんな能力を思い出してくる頃だった。
「ルーナ、アマリリス……」
カリスがゆらりと私達の方向を捉えた。
見えてはいない。まだ幻術は解けていない。匂いで感じ取っているのだろう。その証拠に、歩み出す彼女の動きはたどたどしいものだった。
「二人とも絶対に逃がさない。今すぐにかかってこい」
「――止めておくわ」
ルーナの手を握りしめて、私はカリスに向かって告げた。
「欲求は違う人狼に解消してもらう事にする」
距離を置くべきだ。
せめて、ルーナが怯えずに身を守れれば違うのだろうが、少なくとも今の精神状態では無理だ。
それに、戦うにはこの林は狭過ぎる。
「じゃあね、カリス」
ルーナの手を引いて、私は歩み出した。
すると、カリスが唸った。
「待て! 動くな!」
鼻に頼るようだ。たどたどしくても追いかけることは出来るだろう。私はルーナの手をしっかりと握って走り出した。ルーナも転ばないようについて来る。そんな私達を追って、カリスも動いているようだ。
狼の気配。
私の欲が求めている狼が追いかけてきている。けれど、その欲に流される気にもなれなかった。自分はともかく、今はルーナを失う事はそれだけ怖いことだった。
どれだけ走っただろうか。
カリスはまだ追いかけてきている。幻術が解ければ、私達の負けだ。木々に囲まれ、死角の多いこの場所では、戦うのは難しい。
しかし、ふと私は思いついた。林を抜けて応戦すれば、さっきよりもずっと有利に立てるのではないだろうか。直後、私は林を抜ける方向に逃げ出した。目指すのは、町と林の間にある平原だ。そこならば、存分にカリスと戦えるだろう。
けれど、しばらく逃げ続けて、私はふと気付いた。
カリスの気配が遠ざかっている。
幻術は消え行こうとしているというのに、追うことを止めようとしているのだ。もしかしたら、私の狙いに気付いたのかもしれない。
「カリス!」
私は背後に向かって叫んだ。
「クロの仇をとるんじゃないの?」
けれど、カリスの動きが強まる気配は全くなかった。
ルーナの手を握りしめて、私は立ち止まった。追いかけては来ているのかもしれない。林を抜ける方角へと進み続け、始終周囲へと注意を向ける。
先程のようにルーナを奪われることがないように、手を絶対に放さない。
「アマリリス……」
ルーナがそっと私に告げる。
「わたしが誘き出そうか。もう怖くないよ?」
私は周囲を窺ったままルーナに答えた。
「駄目よ。今は私の手を離れないで」
「でも……」
ルーナが言いかけた時、平原は見えてきた。
平原を抜ければすぐに町は現れる。町に向かう人間達に見つかれば面倒事は避けられないが、カリスを誘き出すには格好の場所に違いない。私はそんな平原に足を踏み入れると、ルーナを引き寄せてカリスの追って来る気配を探った。
カリスもまた町に行きたがっているはずだ。
人間を喰わなくては人狼もまた生きてはいけないからだ。
その為か、カリスは確実に私達の後を追っていた。しかし、姿を現そうとはしない。幻術はとっくに解けているはずなのに、私達を襲おうとしない。
どうやら彼女の狼としての警戒心が、その行動を縛っているらしい。
「カリス。あなたは臆病者ね」
気配のみがする方向へと私は語りかける。
「目の前に最愛の人の仇がいるというのに、復讐の一つ出来ないでいるの?」
返答はない。こんな安い挑発に乗るほどに混乱してはいないのだろう。
だが、それでも私は煽り続けた。乗るつもりのない挑発でも、ずっと聞かされれば嫌になるだろう。来るなら来る、でいいし、来ないのならばさっさと何処かへ行って欲しかった。
「臆病者のあなたに私達は捕まえられない。あなたは一生、私達の肉の味なんて知ることはないわ。あなたにある未来は、私に殺されることだけ。そうでしょう?」
私はじっと気配の元を見据えた。
「あなたの伴侶クロは立派な男だったわ。最期まであなたを想っていたようよ。あなたを殺すつもりだと知ってからやっと、彼は絶望的な顔を見せてくれたの。美しくて愛しい顔だった」
伴侶の事を言われ、カリスの気配が揺らいでいる。
だが、来るつもりはないようだ。
私の言葉に動揺しはじめた彼女は、その場を離れる道を選んだらしい。
やはり、カリスは冷静のようだ。日々殺し続けている血の気の多い人狼達とは違って、一筋縄ではいかない。けれど、そこが楽しい。
カリスを手に入れた時、私は一体どのくらいの快楽を得ることが出来るのだろう。
そんな未来を想像しているうちに、カリスの気配は風の向こうへと消えてしまった。