第五話 新月の海に溶ける 三
「新月の夜、海へ連れていってくれませんか」
「えっ」
「ごめんなさい。いきなり
見も知らずの女から
いきなりこんなこと言われたら
驚きますよね」
「いえ」
私は次の言葉が出なかった
さほど驚いていない自分に驚いていた
「なぜ、新月に?」
「月がない夜なら、余計なものがいちばん消える気がして」
私は反射的に、夜の海の危うさを思った
暗さ、足場の悪さ、風、冷え
けれど彼女の声には
不思議と無理な願いの響きがなかった
ただ、そこへ行かなければならない者の静かな決意があった。
私は断れなかった。
新月の夜
海へ向かう道は驚くほど暗かった。
車のヘッドライトが照らす範囲だけが世界で
その外側はすべて飲み込まれていた
彼女は助手席で窓の外を向いていた
見ているかどうかはわからない
それでも、ときおり流れていく街灯の名残りを感じ取るように、まばたきをした。
海岸に着くと、そこには本当に何もなかった。
月も、星も、雲さえ。
遠くの漁港の灯りも
風にちぎれてしまいそうだった。
懐中電灯の小さな光を頼りに
私たちは波打ち際から少し離れた砂の上まで歩いた
足元の砂からは冷気と湿気
闇は濃く、海は見えない
ただ、そこにあるとわかるだけ
低く繰り返す波の音が
世界の輪郭を打っていた。
「着きました」
彼女は立ち止まり、深く息を吸った。
「……ほんとだ」
「何が」
「何も見えない」
その声には
怯えよりも驚きがあった。
確かに
そこには何もなかった
海と空は分かれていない
一本の線はなく
ただ巨大な暗さだけが広がっていた。
私は息苦しさを覚えた。
追い続けてきたものが
根こそぎ消えている。
「広いですね」
彼女が呟いた。
「何も見えないのに」
見えないことは喪失ではないのか
「見えないのに、どうして広いってわかるんですか」
彼女は少し笑った。
「わからないです。たぶん、そう感じるだけ」
「境界が、ほどかれていく……」
彼女の言葉に、記憶が呼び起こされた
あの店で読んだ詩集の一編
「あなたも、あの詩を?」
ほどかれていく
ゆっくりと
解けていくように。
ふいに、私の手が
彼女に触れた
その瞬間
自分の輪郭と
彼女の輪郭が
その区切りが
静かに薄くなっていく
波の音
風
だが
すべての輪郭が
溶けあい
闇となる
彼女の指が
私の指を迎えた
私は願った
水平線の戻ってこない世界
私と彼女もまた
別々の孤独でなくていい世界
暗闇のまますべてがほどけてしまえ
と
やがて、彼女が小さく息を呑んだ。
「……あ」
「どうしました」
「少し、明るい」
私は顔を上げた。
東の空のあたり
ごく薄い、灰色にも白にもなりきらない
気配が滲み始めていた。
夜明けだった。
それはあまりに静かで
残酷だった。
闇は一瞬で壊れるのではない
ゆっくりと
容赦なく剥がれていく。
まだ世界が完全に姿を取り戻す前に
線だけが先に現れた。
水平線。
まだ、完全ではない
だが、確かに、そこにあった。
海と空を、ふたたび分けていた。
古い痛みが戻ってくる。
向こう側とこちら側。
行ける場所と行けない場所。
失われたものがいる場所と、自分が立ち尽くす場所
世界は、また元に戻るのだ
「光が戻ってきた」
彼女が言った。
その声には、喜びとも諦めともつかない色があった
私は、もう一度彼女の指に触れた
彼女は、何も言わなかった
世界は
何事もなかったように
輪郭を取り戻していく
私の孤独
彼女の喪失
二人の身体
何も変わらない
ただ、一度だけ
境界がほどけた夜に
並んで立っていただけ
水平線は
相変わらず
遠くにあった
触れられないまま
朝の光だけが
静かに
広がっていった




