第五話 新月の海に溶ける 二
その日
海辺の小さな展示スペース
客はほとんど来ない
気まぐれな客が
ふらっと来て
当たり障りのない
感想を口にしていく
それらは
波が砂をなでていくように
私の前をすぎていく
「……海の匂いがする」
女の声だった。
やわらかい声だが
言葉の置き方に慎重さがあった
ものに触れる前
位置を確かめるような声だった。
顔を上げると
入口にひとりの女が立っていた
年頃は私と同じぐらいか
白い杖は持っていない
だが視線がわずかに定まらない
まっすぐ前を向いているようでいて
焦点が空気の少し手前に置かれているようだった。
彼女は壁の写真に顔を向けた。
けれど
「見ている」のではない
「写真展……ですか」
「展というほどでも」
「そうですか」
彼女は一歩、二歩と中に入り
写真の前で立ち止まった
無造作といえる距離だった
「海ばかりですね」
「海というより、水平線です」
「水平線……ですか」
彼女は
それがくせなのか
言葉を
口の中でゆっくり転がした
「わたし、もう、それがよくわからないんです」
彼女は小さく笑ってから
自分の言葉の意味に
思い当たって
苦笑いに変えた
私は何も言えなかった。
女は、気まずさを取り繕うように続けた。
「病気で
少しずつ見えなくなっていて
明るいか暗いか
大きいものがあるかないか
それくらいはまだわかるんですけど
境目なんかは……」
そこで彼女は言葉を切った。
その沈黙に、彼は妙な親しみを感じた
説明しすぎれば壊れてしまうものを
ぎりぎりのところで守るような沈黙だった
「見たいものがあって、来たんです」
「最後のうちに」
彼女はそう言って写真のほうを向いた
「本当は
ずっと呆けていたんです
なぜ自分がって」
「その時
昔不思議な店に迷い込んだとき
読んだ詩集の一編を
思い出したんです。」
私は
壁の水平線を振り返った。
不完全なものばかりだ
だが
彼女にはその不完全ささえ
確かめられないのかもしれなかった。
「水平線って、どこからどこまでなんですか」
その問いは
静かに
まっすぐ彼の胸に入ってきた。
ありきたりな答えを
求めてはいない
「……分かれているように見える場所です」
私は
そう言うしかなかった。
「見える……だけ」
「本当は混ざってるのかもしれません」
彼女はしばらく黙り
それから少しだけ嬉しそうに言った。
「それ、いいですね」
私は
その言葉の意味がわからなかった。




