第四話 屋上のアポロ 二
いつもどおり
すべてに
重力を感じながら歩いていた
ある夜
見慣れぬ路地
その奥に
店があった
足が向いたのは
歩むごとに
枷が外れるように
重力が
消えていくのが感じられたからだ
看板はない。
古びたガラス戸
くすんだ真鍮の把手。
ためらうこともなく
僕は扉を開いた
店の中は
外から見たよりも広かった
奥へ奥へと続く棚。
古本の匂い。
止まった時計たち
卓上ランプの明かりの中の
埃は
漂うことなくとまっていた
人の気配は、あるようで、ない。
導かれるように奥へ進む
いちばん奥に低い机があった
その上に
一冊だけ本が置かれていた
黒い表紙だった。
夜を薄く切り取って
紙に貼りつけた色
題名が
かすかな銀色で刻まれていた。
『ひとりの夜は、読んではいけないポエム』
しばらく
目が離せなかった
拒んでいるのか
誘っているのか
本を開く。
適当に開いたそのページには
――死んだ人の魂は、天に昇るんだよ
大人が子どもへ言う
やさしい定型句
天に昇る
だから見上げればいい
星を探してごらん
「違う」
その呟きを
店の静けさは
拒まなかった
言葉の続きを待っているように
もう一度、ページを見る
少し下に、別の一節があった。
――宇宙船の窓から君を見つけ
この想いを伝えよう
胸の奥で何かが軋んだ。
「ちゃんと遠くに行けそう」
ずっと
逃げようとしていたのだと思っていた
重力の強すぎる世界から離れるために
彼女のいない現実から
少しでも遠ざかるために
けれど、違った。
逃げたかったのではない。
届けたかったのだ。
届かないとわかっている言葉を。
受け取る相手のいない言葉を。
自分の中で腐らせるには重すぎる言葉を。
そのことに、いま初めて気づいた。
宇宙は
空っぽな空間ではなかった。
言えなかったこと
渡せなかったこと
続くはずだった時間
消えない呼びかけが
密度を持って詰まっている。
巨大で、暗くて、ひとりでは測れない。
それは悲しみというより、ひとつの宇宙だった。
遠くにあるのではない。
内側に、ずっと広がっていたのだ。
ページの文字が
少し揺れた
視界の焦点が
一瞬だけほどける。
本を閉じ
店を出た
大通りに出て
路地を振り返る
路地はなかった




