【証拠はいらない】嫌われたくなくて、やめられない
相談者は、六十代の女性だった。
服は地味だが清潔で、髪もきちんと整っている。
指輪はしているが、触る癖はなかった。
ただ――
椅子に座ってから、ずっと背中が硬い。
「娘に勧められて来ました」
それだけで、だいたい分かる。
「いい所ですね」
「そうか?」
「落ち着きます」
そう言って、少しだけ笑った。
「今日は、何の相談だ」
女は、一瞬だけ言葉を探した。
「……いい人を、やめたいんです」
静かな声だった。
「やめられない?」
「はい」
「理由は?」
「嫌われるのが、怖いから」
即答だった。
迷いはない。
長い時間、その答えで生きてきた人の声だ。
「家族は?」
「夫と、犬がいます」
「子どもは、もう独立してます」
「娘さんか」
女は小さくうなずく。
「あの子が言うんです」
「お母さん、もう無理しなくていいって」
少し苦笑した。
「私、無理なんてしてないんですけどね」
「本当に?」
女は、言葉に詰まった。
「……やるべきことは、やってきました」
「家のことも」
「親の介護も」
「近所付き合いも」
「文句、言われたくなかった?」
女は、ゆっくりとうなずく。
「ちゃんとした人だと思われたかった」
「迷惑をかけない人でいたかった」
沈黙。
「それで?」
女は、ぽつりと言った。
「最近……」
「朝が、しんどいんです」
「体調?」
「違います」
はっきりしていた。
「起きた瞬間に」
「今日も、誰かの期待を守らなきゃって思うと」
「身体が、重くなる」
そこで、初めて視線が落ちた。
「でも」
「私が嫌な顔をすると」
「場の空気が悪くなるでしょう?」
「なるな」
「……そうですよね」
笑ったが、軽くはなかった。
「聞くぞ」
女は、顔を上げる。
「娘さんが」
「同じことしてたら」
「何て言う」
答えは、すぐには出なかった。
しばらくして、女は言う。
「……やめなさい、って言います」
「即答だな」
女は、はっとした。
「自分には?」
「……言えません」
「どうして」
「母親だから」
「役割だな」
女は黙った。
「もう一つ聞く」
「はい」
「“いい人”をやめたら」
「何が起きると思ってる」
女は、しばらく考えてから答えた。
「嫌われる」
「見放される」
「役に立たなくなる」
「それで?」
「……居場所が、なくなる」
核心だった。
「なあ」
俺は、少しだけ声を落とした。
「今、あんたは」
「誰の人生を生きてる」
女の目が揺れた。
「……分かりません」
「それで十分だ」
「え?」
「分からなくなったってことは」
「もう、限界を越えてる」
女は、唇を噛んだ。
「でも」
「私がやらなかったら」
「誰が……」
「誰も死なない」
即答だった。
「困る人はいる」
「不満を言う人もいる」
少し間を置く。
「でも」
「壊れる必要がある人間はいない」
女の肩が、少しだけ落ちた。
「……私」
「嫌われても、いいんでしょうか」
「決めろとは言わない」
そう前置きしてから、続ける。
「ただ」
「嫌われないために生きるのを」
「人生だと思うな」
長い沈黙。
やがて、女は小さく言った。
「……証拠」
「いりませんでしたね」
「ああ」
「私が悪くない理由を」
「探しに来たんですけど」
「見つかったか」
女は、ゆっくりうなずいた。
「娘に」
「同じ人生を歩かせたくない理由は」
「もう、分かってました」
立ち上がる。
来たときより、背中が少し低い。
ドアの前で、振り返る。
「私」
「いい人じゃなくなっても」
「母でいられますか」
少し考えてから答える。
「むしろ」
「その方が、長くいられる」
女は、静かに笑った。
ドアが閉まる。
⸻
事務所に、静けさが戻る。
相棒が言う。
「……嫌われたくないの、わかる」
「そうか?俺は嫌われたら嬉しい」
「なんで?」
「それだけ、興味があるってことだからな」
いい人をやめる理由に、
証拠はいらない。
壊れずに生きることは、
わがままじゃない。
それを知るだけで――
もう、十分だ。




