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【証拠はいらない】嫌われたくなくて、やめられない

作者: Wataru
掲載日:2026/02/06

 相談者は、六十代の女性だった。


 服は地味だが清潔で、髪もきちんと整っている。

 指輪はしているが、触る癖はなかった。


 ただ――

 椅子に座ってから、ずっと背中が硬い。


「娘に勧められて来ました」


 それだけで、だいたい分かる。


「いい所ですね」


「そうか?」


「落ち着きます」


 そう言って、少しだけ笑った。


「今日は、何の相談だ」


 女は、一瞬だけ言葉を探した。


「……いい人を、やめたいんです」


 静かな声だった。


「やめられない?」


「はい」


「理由は?」


「嫌われるのが、怖いから」


 即答だった。


 迷いはない。

 長い時間、その答えで生きてきた人の声だ。


「家族は?」


「夫と、犬がいます」

「子どもは、もう独立してます」


「娘さんか」


 女は小さくうなずく。


「あの子が言うんです」

「お母さん、もう無理しなくていいって」


 少し苦笑した。


「私、無理なんてしてないんですけどね」


「本当に?」


 女は、言葉に詰まった。


「……やるべきことは、やってきました」

「家のことも」

「親の介護も」

「近所付き合いも」


「文句、言われたくなかった?」


 女は、ゆっくりとうなずく。


「ちゃんとした人だと思われたかった」

「迷惑をかけない人でいたかった」


 沈黙。


「それで?」


 女は、ぽつりと言った。


「最近……」

「朝が、しんどいんです」


「体調?」


「違います」


 はっきりしていた。


「起きた瞬間に」

「今日も、誰かの期待を守らなきゃって思うと」

「身体が、重くなる」


 そこで、初めて視線が落ちた。


「でも」

「私が嫌な顔をすると」

「場の空気が悪くなるでしょう?」


「なるな」


「……そうですよね」


 笑ったが、軽くはなかった。


「聞くぞ」


 女は、顔を上げる。


「娘さんが」

「同じことしてたら」

「何て言う」


 答えは、すぐには出なかった。


 しばらくして、女は言う。


「……やめなさい、って言います」


「即答だな」


 女は、はっとした。


「自分には?」


「……言えません」


「どうして」


「母親だから」


「役割だな」


 女は黙った。


「もう一つ聞く」


「はい」


「“いい人”をやめたら」

「何が起きると思ってる」


 女は、しばらく考えてから答えた。


「嫌われる」

「見放される」

「役に立たなくなる」


「それで?」


「……居場所が、なくなる」


 核心だった。


「なあ」


 俺は、少しだけ声を落とした。


「今、あんたは」

「誰の人生を生きてる」


 女の目が揺れた。


「……分かりません」


「それで十分だ」


「え?」


「分からなくなったってことは」

「もう、限界を越えてる」


 女は、唇を噛んだ。


「でも」

「私がやらなかったら」

「誰が……」


「誰も死なない」


 即答だった。


「困る人はいる」

「不満を言う人もいる」


 少し間を置く。


「でも」

「壊れる必要がある人間はいない」


 女の肩が、少しだけ落ちた。


「……私」

「嫌われても、いいんでしょうか」


「決めろとは言わない」


 そう前置きしてから、続ける。


「ただ」

「嫌われないために生きるのを」

「人生だと思うな」


 長い沈黙。


 やがて、女は小さく言った。


「……証拠」

「いりませんでしたね」


「ああ」


「私が悪くない理由を」

「探しに来たんですけど」


「見つかったか」


 女は、ゆっくりうなずいた。


「娘に」

「同じ人生を歩かせたくない理由は」

「もう、分かってました」


 立ち上がる。


 来たときより、背中が少し低い。


 ドアの前で、振り返る。


「私」

「いい人じゃなくなっても」

「母でいられますか」


 少し考えてから答える。


「むしろ」

「その方が、長くいられる」


 女は、静かに笑った。


 ドアが閉まる。



 事務所に、静けさが戻る。


 相棒が言う。


「……嫌われたくないの、わかる」


「そうか?俺は嫌われたら嬉しい」


「なんで?」


「それだけ、興味があるってことだからな」


 いい人をやめる理由に、

 証拠はいらない。


 壊れずに生きることは、

 わがままじゃない。


 それを知るだけで――

 もう、十分だ。

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