不思議な出会いの友情
「カップ麺、落としましたよ。」
その声は、夕暮れのスーパー前のざわめきの中、不思議とやわらかく響いた。
俺の足元に転がってきた赤いカップ麺を拾い上げ、差し出した相手は、小柄で背中の丸い白髪のおばあちゃんだった。白い手袋の指先が少し震えている。
「まあ、ありがとうねぇ。最近、指がうまく動かなくてねぇ」
おばあちゃんは申し訳なさそうに笑った。
俺は「いえ」と軽く答えたが、その笑顔が妙に印象に残った。
「重たい荷物ですね。家、近いんですか?」
「すぐそこよ。けど、一人だとやっぱり大変でねぇ」
ほんの数分の雑談のつもりだった。だが、家の前に着くと、おばあちゃんは玄関の戸を開けながら振り返り、こう言った。
「よかったら、お茶でも飲んでいきなさいよ。カップ麺のお礼に。」
普通なら断る。知らない家に入るなんて危ない、と子供のころ散々言われた。
だが、このおばあちゃんを前にすると、そんな警戒心が不思議と薄れた。
「じゃあ…お言葉に甘えて、少しだけ」
俺の返事に、おばあちゃんの顔がふっと明るくなった。
おばあちゃんの家は、昭和の香りが残る静かな一軒家だった。
畳の匂い、古い柱時計のコチコチという音、居間の棚に並んだ色あせた家族写真。
「散らかっててごめんねぇ。お茶淹れるから、座って待ってておくれ」
湯気の立つ急須の音と、ほうじ茶の香ばしい香り。
湯飲みを手渡された瞬間、ひどく懐かしい気持ちが胸にしみ込んだ。
「お客さん、久しぶりでねぇ。誰かと話すと、体があったかくなるよ」
「僕も、こんなにゆっくりお茶飲むの、最近なかったです」
「忙しいんでしょう?」
「まあ…会社と家の往復ばかりで」
おばあちゃんは湯飲みをそっと置き、目を細めた。
「若い人は偉いよ。休む時間、ないんでしょう。
でもね、こうして誰かと話してひと息つくのも、人生には大事なんだよ」
その言葉が思いのほか胸に響いた。
おばあちゃんは話し上手だった。
近所の猫が庭のプランターに毎日寝に来る話。
若い頃に働いていた旅館での失敗談。
亡くなった夫との旅行のエピソード——
どれも自然に惹きこまれてしまう。
気づけば俺は笑い、時には目を潤ませ、時間を忘れていた。
「ところで、名前はなんていうの?」
「亮です」
「りょうさん、ね。いい名前だわ。今日来てくれて、ほんとに嬉しいよ」
その言い方がどうしようもなく温かかった。
「また来てもいいですか?」
気づけばそんな言葉が口をついて出た。
おばあちゃんは驚いたように目を丸くし、それからゆっくりとうなずいた。
「もちろんだよ。お茶はいくらでもあるし、カップ麺もまた落とすかもしれないしねぇ」
「落とさないように気をつけてくださいよ」
「ふふ、できるだけね」
二人で笑った。
その笑い声が、古い家の中にやさしく溶けた。
それから数日おきに、おばあちゃんの家を訪れるようになった。
仕事で嫌なことがあった日も、疲れ果てて帰った日も、おばあちゃんの家の前に来ると自然と肩の力が抜けた。
お茶だけじゃない。ときには一緒に煮物を作り、
ときには庭に落ちた柿を拾い、
ときにはテレビのワイドショーに二人して突っ込みを入れた。
「亮さんは、いい子だねぇ」
「いや、普通ですよ」
「普通が一番いいんだよ。私はそう思うね」
おばあちゃんの言葉には、説得力があった。
ある日、俺が訪ねると、玄関にカップ麺がひとつ置いてあった。
赤いパッケージ。あの日と同じやつ。
「おや、来たねぇ。今日はこれを一緒に食べようと思ってね。ほら、あの日の記念」
「まだ落としてませんよね?」
「落とす前に拾ってくれたようなもんだよ」
そう言って笑うおばあちゃんは、子供みたいに嬉しそうだった。
ふつうのカップ麺なのに、ふたりで食べると妙にうまい。
湯気の向こうでおばあちゃんの笑顔が揺れた。
あの日、たまたま転がってきたカップ麺。
ただそれだけの出来事だったはずなのに、
俺の生活は少しずつ、けれど確実にあたたかくなっていった。
人生には、意図せず転がり込んでくる縁がある。
それを拾い上げるかどうかで、世界は大きく変わるのだと知った。
帰り際、おばあちゃんはいつものように玄関先まで見送ってくれた。
「亮さん、またお茶飲んでいきなさいな。いつでもね」
その声は、夕暮れの風よりも静かで、優しかった。
この不思議な友情は、今日も静かに続いていく。




