第9話 残響
冬の光は、音の輪郭を細くする。
十二月の空はよく晴れて、校舎の窓ガラスは冷たい鏡みたいに何度も空を映し直していた。
御影悠真は、吐く息の白さで自分の緊張を知った。
指先にハンドクリームを馴染ませ、使い込んだクロスで弦を一本ずつ拭う。
この学校で過ごした時間を、一本ずつ拭い取っているような気がして、少し笑う。
今日、体育館は卒業ライブの会場に姿を変える。
軽音部の先輩たちが去っていくための、音の儀式。
空閑透真がステージに立つ最後の日。
——いや、正確には「最後に立つはずだった」日、と言ったほうが近いかもしれない。
彼の喉は、文化祭の時ほど深刻ではないにせよ、完治はしていない。
それでも彼は、卒業する。
出せる音で、出せる分だけ。
その背中を、どう送り出すか。それが今日の悠真の役割だった。
機材搬入の手伝いを終えると、体育館の裏手でひとり指を温めた。
手袋を外して、空気に晒す。
冬の乾いた冷たさが、指板の感触に似ている。
四拍数え、半拍を吸って、吐く。
呼吸が落ち着くたび、音の位置が明確になる。
文化祭から今日までのあいだに、ふたりで作った小さな曲たちの断片が、脳裏で同時に鳴った。
『音の境界線』。
『匿名の返事』。
『いちばん短い約束』。
どれも未完成のまま、でも未完成だからこそ今夜の空気に合う気がして、胸のどこかが少しだけ熱くなる。
「御影ー。リハ行ける?」
体育館の扉から安堂が顔を出した。
「はい、すぐ行きます」
ギターを抱え直し、悠真は暗い袖へ駆け戻る。
ステージには薄くもやがかかっているようで、照明の埃がひとつひとつ見える気がした。
マイクスタンドの高さを調整し、足元のケーブルを踏まない位置を確認する。
音出しの合図。
「——テステス」
自分の声がスピーカーを通って返ってきたとき、胸が奇妙に静かになった。
これは恐怖の静けさではない。
音が前に出る直前の、正しい静けさ。
「御影、ピックアップの角度、少し立てようか」
ステージ袖の透真が、癖のない手振りで示す。
今日の彼は黒のカーディガンに白いシャツ。喉にはまだ薄いスカーフを巻いている。
「はい」
言われた通りに角度を微調整すると、指先で弾く一音の輪郭がわずかに硬くなった。
——行ける。
自分の中の小さな声が、過不足なく告げる。
リハが終わり、体育館の照明が一度落ちると、客席がざわざわと音を増やした。
今日で先輩たちが卒業するという事実がようやく空気の密度に変換され、観客の体温になってゆく。
廊下では送辞の練習をする生徒会が声を合わせ、校舎の外では落ち葉が乾いた音で地面を擦っていた。
悠真は水を飲み、肩の力を落とす。
今日、自分は一度、ひとりでステージに立つ。
『放課後ノイズ』を弾き語るために。
それは、彼と出会った曲であり、彼に返したい曲でもある。
「——お前の出番、三番目」
袖で譜面をまとめていた透真が、声を潜めて告げた。
「はい」
「モニターは下げ気味でいい。客席の息を拾え」
「……客席の息」
「反応が遅いのは冬のせいだ。音を急がせるな。——半拍、長めに」
半拍の助言は、何度聞いても心が整う。
言われた通りにすることが、なんだか誰かに守られていることと同義になる。
守られているからこそ、前に出られる。
前に出るために、守り方を覚える。
その循環をこの半年で覚えた。
開演のアナウンス。
照明が上がり、最初のバンドがステージに飛び出す。
跳ねる曲で会場を温め、二組目はしっとりとバラードで落ち着かせる。
袖で待つ間、悠真は、見えない誰かと呼吸を合わせるように胸の上下を静かに揃えた。
“会場の息を拾え”。
客席の海は、少し冷たい。けれど波はある。
波が来る方向に、ほんのわずかだけ音を前に置けばいい。
「次、ソロ——御影悠真」
係の生徒の声が背中を押す。
ギターを抱えてステージへ。
観客席がふっと静まる。
照明が白く収束し、足下の影がはっきりと伸びた。
マイクの位置に立ったとき、視界の端で、最前列から少し離れた場所に立つ背の高い影を見つけた。
空閑透真。
黒いカーディガン、白いシャツ。
喉元のスカーフの結び目が、細い月みたいに見えた。
彼は袖にいない。客席にいる。
ステージのこちらとあちら、その距離が、いま夜と昼の境界線みたいに思えた。
「……『放課後ノイズ』、歌います」
短く告げ、ピックを持たない右手で最初の和音を撫でる。
E。
空気に溶ける最初の一音が、冬の体育館に透明な線を引いた。
観客席の誰かの咳払いが、遠くで小さく跳ねる。
それも、音の一部に入れる。
四拍数え、半拍を吸って、置く。
放課後のノイズ 耳が覚えてる
名前を呼ぶより先に 君が来る
客席が、ゆっくりと前に乗る。
体育館という巨大な箱が、呼吸を始める。
歌が進むほどに、悠真の身体は、ひとつの楽器の中に収まっていった。
指の震えは音符の端へ移り、膝の力はハイハットの裏拍へ溶けてゆく。
歌詞のたびに、どこかで透真の横顔が明滅する。
ステージ袖で、スマホの小さな画面で、匿名のチャット欄で——いつかの夜のすべてが、今この白い灯りの下に、形を変えて集まってきた。
Bメロで視線を上げる。
彼と目は合わない。
合わない代わりに、会っている。
彼は少しだけ顎を引いて、目を伏せた。
あの仕草が、どれだけ多くの夜を救ってきたか、観客席の誰も知らない。
知っているのは、ここに立つ自分だけだ。
サビ。
声を張らない。伸ばす。
冬の天井の冷たさに、声の温度がよく映る。
「前に、行け」
胸のどこかで、彼の声が重なる。
前に行くと、足下の床が半枚だけ軽くなる。
軽くなった床は、他の誰かの前にも続いている。
最後のフレーズを落とし、余韻を長く残す。
観客席の静けさが、波の底のように深くなる。
そこに静かな拍手が広がり、やがて大きな音の海へ変わっていった。
頭を下げると、胸が急に熱くなる。
この熱は、自分だけのものじゃない。
この曲を作って、投げて、拾って、返して——それを繰り返した、ふたりの熱だ。
顔を上げたとき、照明の向こうで、彼が口を開いた。
マイクは持っていない。
けれど、声が届いた気がした。
「——リクエスト、いいか?」
体育館が、少し笑う。
その“少し”が愛おしい。
悠真はマイクに口を寄せ、笑みをこぼした。
「『放課後ノイズ』、ですね」
客席がざわめく。
「さっき歌ったじゃん」とか、「もう一回だって」とか、いくつもの声が混ざる。
悠真は小さく首を振った。
「“今の”『放課後ノイズ』を、もう一回、やらせてください」
“今の”。
今だけの、音の温度。
彼のいる客席と、自分のいるステージの、境界線の上だけで鳴る音。
ピックを置き、指で弾き直す。
和音はさっきよりも柔らかい。
観客も、さっきよりも前に来ている。
最初の言葉を、今日いちばん小さな声で置く。
彼のいる場所まで、届く程度に。
放課後のノイズ 耳が覚えてる
二回目の“覚えてる”が、胸骨の裏で響いた。
覚えているのは、耳だけではない。
喉も、指も、肺も、背骨も、覚えている。
匿名の白い画面の光、校舎裏の風の匂い、音楽準備室の蛍光灯、メトロノームの乾いたクリック。
すべてが、今日のための“残響”だったのだと思う。
ラスサビ。
声を一段落とし、観客席の息に合わせて、半拍を長めに待つ。
そこで、ふいに——
低いハミングが、客席から立ち上がった。
透真だ。
マイクなどないのに、彼の下の声ははっきり届いた。
ハミングは言葉にならず、けれど意味は持つ。
“ここにいる”。
“君の声の下にいる”。
その宣言を、今夜だけの音で。
悠真の喉が、震えた。
言葉ではない“ありがとう”を、声の高さで返す。
最後のコードを置く。
体育館の天井から、光が音に降りる。
ふたりのハーモニーは、ほんの数秒だった。
けれど、数秒でじゅうぶんだった。
数秒のために、何ヶ月もかけて準備してきたのだから。
終わった瞬間、歓声がはぜた。
拍手の音が手のひらでいくつも割れ、その破片が体育館の空気にきらきら浮いた。
悠真は深く頭を下げ、マイクから離れる。
客席の彼は、拍手をしながら、目だけで「行け」と言った。
目で命令を出せる人間が、この世にはたしかにいる。
その目が好きだと思った。
好き、という短い言葉を今夜は使わないと決めていたのに、心の中では何度でも言ってしまう。
*
終演後の体育館は、余熱の匂いがする。
照明が落ち、ステージの上には機材の影が長く伸びている。
片付けの気配が一段落したころ、外は群青に沈み、校庭の白い息が重なり合っていた。
悠真はギターをケースに収め、ストラップを丸める。
肩が軽い。
出し切ったあとの軽さが、冬の空気とよく馴染む。
「御影」
背中に落ちた声。
振り向くと、透真がいた。
照明のない体育館でも、彼の輪郭はくっきりしていた。
近づいてくると、喉元のスカーフから微かなメントールの匂いがする。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
それだけでもう足りないのに、足りないままでいい夜もある。
しばらく黙って、ふたりでステージを眺めた。
舞台袖のカーテンがゆっくり揺れ、その揺れが黒い海の波頭のように見えた。
余韻の時間は、誰のものでもない。
余韻だけが、音楽を現実と結び直してくれる。
透真が、ポケットに手を入れて何かを取り出した。
白いコード。
古びた、黄ばみの残った、見慣れたイヤホン。
片方を、悠真に差し出す。
「……半分、いる?」
「はい」
受け取った片耳を耳に挿す。
すぐには音は流れない。
ただ、ふたりの呼吸がわずかに同期する。
深く吸い、浅く吐く。
間に合うように、半拍だけ長く待つ。
透真がスマホの画面を軽く触れ、やがて微かな音が流れ出した。
今日の録音——ではない。
あの、匿名の夜に録られた音声だった。
〈半拍、待て〉
〈怖かったら、俺の名前を呼べ〉
〈君の声で、前に行ってほしい〉
過去の言葉が、現在の耳で新しい意味を持つ。
「これで聴くと、また繋がれる」
透真が、呟くように言った。
「匿名も、現実も、もうひとつのケーブルで、同じになる」
「……はい」
イヤホンの細いコードが、ふたりの間で弓の弦みたいに微かに張る。
その張力が、心臓の前あたりで正しい角度を作る。
ふたりとも、何も言わずにしばらく立っていた。
体育館の高い天井に、誰かの笑い声が遅れて跳ね返ってくる。
すでに解散したはずのバンドが、廊下でふざけているのだろう。
音のない場所はない。
音を見つける耳さえあれば、ここはどこでも“ステージ”になる。
「……さっきのハミング、ずるかったです」
悠真が言うと、透真は小さく笑った。
「ずるいのは、だいたい効く」
「効きました」
「知ってる」
短い言葉の往復で、夜は少しだけ温かくなる。
「卒業しても、俺は俺のままだ」
透真が、唐突に言った。
言い訳の前置きも、未来の予告もない、ただの宣言。
「はい」
「喉が治っても、治らなくても、音に嘘はつかない」
「はい」
「——御影。お前は、前に行け」
「行きます」
返事は、命令形と同じ強さで胸に刺さり、同時に支柱になる。
支柱のある場所で人は姿勢を保てる。
姿勢が保てれば、声は前に行く。
「リクエスト、いい?」
透真が目だけで笑う。
悠真は笑い返した。
「『放課後ノイズ』、ですね」
「そう。……来年の新入生の前で、もう一回」
「はい。新しい“今の”で」
「“今の”を更新し続ける。音で」
「はい」
イヤホンを外すと、冬の空気が耳の中にすうっと入ってきた。
世界の音がふたたび広がる。
そのすべてが、今夜だけはやさしかった。
体育館を出ると、空にはうすい雲がかかっていた。
星の数は少なく、代わりに校舎の窓明かりがいくつも、星の真似をしていた。
風が頬に触れ、耳たぶを少しだけ冷やす。
その冷たさの上に、自分の体温が確かに戻ってくる。
隣で透真が、首のスカーフを少し緩めた。
喉の白い肌に、夜の色が薄く落ちる。
「送ってく」
「いえ、途中までで」
「途中まで、ね」
彼の歩幅は、いつもと変わらない。
急がず、遅れず。
悠真は、その半歩後ろを歩いた。
半歩後ろで、半拍前に息を吸う。
この距離が、いちばんよく会話を聞き取れる。
距離が会話の質を決めることを、今夜はやっと言葉にできそうだった。
校門のところで立ち止まる。
「ここまで」
「うん」
別れ際は、名前を呼ばない。
名前は、次に会うときのための音だから。
代わりに、短く右手を上げた。
透真も同じ角度で手を上げ、踵を返す。
その背中が、街灯の明かりに二度ほど色を変える。
見えなくなる直前、彼は振り向かなかった。
振り向かないのに、残響だけが確かに残った。
帰り道、片耳のイヤホンをもう一度差し込む。
さきほどの音声を巻き戻すでもなく、ただ無音のまま歩く。
無音という音のなかで、自分の靴音が拍を取る。
四拍、半拍。
いつか、この半拍にふたりの新しい言葉が乗る予感があった。
それはたぶん“好きだ”という簡単な単語ではない。
もっと長くて、もっと不器用で、演奏に時間のかかる言葉。
それを探す旅路が、これからの毎日になるのだろう。
玄関の鍵を開け、静かな部屋に入る。
机にギターを横たえ、ケースの布を軽く撫でる。
今日の音は、今日のままにしておく。
録音ファイルに名前をつけるかわりに、心の中で日付を呼ぶ。
“卒業ライブの夜”。
その名前は、音より長く持つ。
ベッドに倒れ込む前、スマホの〈Echo〉を開いた。
もうそこに“Rei”の名前はない。
でも、画面の白は、まだやわらかい。
“匿名”という言葉が過去形になる夜でも、白い余白は未来形のままだ。
そこに短く、一行だけ書く。
——また、音で会おう。
送信はしない。
送らない言葉の方が、今夜は正確だ。
目を閉じ、半拍だけ長く息を吐く。
胸の内側で『放課後ノイズ』の最初の和音が、別れの挨拶みたいに小さく鳴った。




