第7話 放課後ノイズ
体育館の天井は、朝の光を受けてぼんやりと白く霞んでいた。
照明の数を数えるほど緊張している自分に気づいて、御影悠真は苦笑した。
軽音部のステージまで、あと二時間。
スピーカーの音出しチェックが終わり、マイクスタンドが等間隔に並ぶ。
リハーサルを終えた他のバンドが楽器を片付けるたび、音の余韻だけが空気に残った。
「御影、ピッチ確認」
顧問の短い声。
悠真は頷いてギターを手に取る。指先の温度がまだ上がらない。
「G、B、E——」
チューナーの針が揺れ、少しずつ真ん中に戻る。
息を吸って、吐く。
拍の感覚を探す。
四拍、半拍、裏拍。
昨日までの夜が、全部そこに重なっていた。
——明日、ステージで会えたらいいな。
“Rei”の最後の言葉が、今も胸の奥で震えている。
「会う」という単語の意味が、昨日までと違って聞こえる。
これは“偶然会う”ではなく、“互いに向かう”のだと、ようやく気づいた。
透真の名前を、まだ口に出してはいけない。
けれど、彼が自分の声を待っていることだけは、確信していた。
「……大丈夫か?」
安堂の声で、意識が戻る。
悠真は笑ってみせた。「大丈夫です」
「ほんとに?」
「はい。前に行けます」
その言葉が、練習室の透真の声と重なった。
“前に行け。俺の前に行け。”
あの瞬間、彼の喉の奥に灯った痛みの色を、悠真は忘れられない。
*
開演のチャイムが鳴る。
照明スタッフがカウントをとり、マイクチェックの音が響く。
「テステス——、OKです」
会場には、もう生徒と父兄が入り始めていた。
放送部の女子がケーブルを巻き直し、係の男子が立て札を持ち上げる。
〈軽音部ステージ・14時より〉
白い紙に黒文字。シンプルなのに、まるで何かの運命の宣告みたいに見えた。
ステージ袖。
照明が一度落ち、舞台裏は暗い。
その薄闇の中に、透真がいた。
白いタオルを首に巻き、冷えたペットボトルを喉に当てている。
目が合うと、いつもと変わらぬ穏やかさで頷いた。
「御影」
「はい」
「マイク、下げすぎるな。…声、前に出せ」
「はい」
言葉は短い。だが、その一音一音が、命綱のように響く。
「……喉、どうですか」
訊いた瞬間、透真の肩がわずかに動いた。
「問題ない」
嘘だ。
彼の声は、まだ掠れている。
それでも“出ない”とは言わなかった。
「お前が前に出れば、それでいい」
その言葉の中に、彼自身の“痛み”がひっそりと混じっている。
悠真は拳を握った。
「わかりました。…行きます」
「放課後ノイズ、いくぞ」
透真の掛け声で、ステージの照明が上がる。
*
観客席のざわめきが、光の下で揺れていた。
拍手と期待の音が、体育館全体に満ちている。
バンド名が呼ばれ、軽い歓声が上がる。
足音がスピーカーのケーブルをまたぐ。
マイクの前に立った瞬間、空気の層が変わった。
照明の熱。客席の静寂。心臓の音。
そのすべてが、四拍目の裏でひとつに結ばれる。
イントロ——ギターのアルペジオ。
自分の指の動きが、まるで誰かの記憶をなぞっているように滑らかだった。
ベースとドラムが合わさり、シンセのパッドが空間を満たす。
最初の歌詞を口に乗せる瞬間、喉が少し震えた。
放課後のノイズ 耳が覚えてる
名前を呼ぶより先に 君が来る
——その声。
ステージ袖にいる透真の身体が、わずかに反応した。
頭の奥で、遠い夜の画面が蘇る。
〈君の音、好きだ〉
〈半拍、待て〉
〈君の声で前に行ってほしい〉
あの“Yuu”の声が、今、目の前のマイクから聞こえている。
もう錯覚ではなかった。
透真の心臓が、喉の奥で脈打つ。
息を飲むたびに、声にならなかった音が身体の内側で反響する。
——この声だ。
何度もイヤホン越しに聴いた声。
夜の匿名の世界で、自分を支えてくれた“Yuu”の声。
舞台の中央に立つ御影悠真。
彼が、“Rei”の愛した“Yuu”だった。
透真は膝に力を入れ、袖の手すりを握りしめた。
指が震える。
照明の隙間から見える悠真の横顔は、光に包まれていた。
あの夜、自分が灯した言葉の光に、彼は確かに照らされている。
歌詞が進む。
彼の声が、確信を持って前に行く。
——もう俺の前だ。
サビ。
ギターが跳ね、ドラムが加速し、鍵盤が光を追う。
悠真の声が、天井に届くほど高く伸びた。
「君の声で、前に行け!」
透真の心の中で、同じ言葉が反射する。
誰も知らない、ふたりだけの合図。
観客席の拍手が湧き、ステージ全体が一つの波になった。
曲が終わると、体育館は一瞬の静寂に包まれた。
音の残像が消えるまで、誰も息をしなかった。
次の瞬間、歓声が爆発した。
拍手、叫び声、笑い声。
それらのすべてが、今この場所に“生きている証”だった。
悠真は深く一礼した。
その姿を見て、透真の喉が焼けるように熱くなった。
声を出したい。
名前を呼びたい。
けれど、出ない。
喉の奥で“ありがとう”が何度も形を変えて、結局どこにも届かない。
照明が落ち、ステージが暗転する。
最後のライトが消えると、悠真はマイクを握ったまま息をついた。
視界の端で、袖に透真の影を見つける。
“見えていた”のだ。最初から。
彼がいなければ、自分はここに立てなかった。
悠真は唇を噛んで、笑った。
「届きましたか」
誰にともなく、そう呟いた。
*
打ち上げが始まる頃には、夕焼けが校舎のガラスを橙色に染めていた。
出店の匂い、笑い声、花火の練習音。
音が交差する放課後。
悠真は楽器を抱えて部室へ戻った。
静かになった部屋で、弦のチューニングを外し、ケースを閉じる。
その音だけがやけに響いた。
扉が静かに開く。
「……御影」
透真だった。
タオルを外し、声はまだ掠れている。
「お疲れさまです」
悠真は笑った。
透真は近づいてきて、机の上に手を置いた。
指先がまだ少し震えている。
「お前……」
言葉が続かない。
口の中にいくつもの言葉があって、どれも合っているのに、どれも違う。
「お前……“Yuu”だったのか」
その瞬間、悠真の喉が震えた。
目の奥が熱い。
何度も、夢の中でこの言葉を想像していた。
“いつか言われる”と、願っていた。
でも、現実に届くと、音が出なかった。
ただ頷くだけで精一杯だった。
透真はゆっくりと笑った。
「……やっぱりな」
「気づいてたんですか」
「最後のサビで。——耳が覚えてた」
その言葉に、悠真の胸の奥がじんと熱を持つ。
“耳が覚えてた”。
そのフレーズは、二人が書いた歌詞の冒頭と同じだ。
言葉が音楽を追い越して、現実に帰ってきた瞬間。
「どうして言わなかったんですか」
「言ったら、終わる気がした」
透真は窓の外を見た。
校庭には、まだ片付けをしている生徒たちの影。
風が音符みたいに舞い上がり、陽が傾く。
「匿名だから言えたことも、あるだろ」
「……はい」
「俺もだ。匿名じゃなきゃ、君の音に救われたなんて言えなかった」
悠真は笑いながら、目を伏せた。
「救われたのは、僕の方です」
「同点だな」
透真はそう言って、小さく息をついた。
沈黙の中で、窓の外の光がだんだんと青く変わっていく。
夜が近い。
放課後のノイズが、ゆっくりと消えていく。
「御影」
呼ばれて、顔を上げる。
「この曲、誰のものだと思う?」
「……僕と先輩の、です」
「違う」
透真は首を横に振った。
「聴いてくれた誰かのものだ。俺たちは、そのために歌ったんだ」
「……はい」
「でも、最初の音を鳴らしたのは——お前だ」
悠真は、泣き笑いのように微笑んだ。
しばらくして、透真がギターを手に取った。
音は出ない。
それでも、指が弦の上を滑る。
悠真も隣に座り、コードを合わせた。
アンプのスイッチを入れる。
軽いノイズ。
夕闇の中で、そのノイズがまるで呼吸のように心地よかった。
透真が小さく言う。「行けるか」
「行けます」
ふたりの音が、ゆっくりと重なる。
言葉の代わりに、音がすべてを語った。
*
外に出ると、風が柔らかく吹いた。
校舎の窓から漏れる灯りが、まだ“文化祭”を終わらせまいとしている。
グラウンドの片隅では、打ち上げの花火の準備が進んでいた。
その音を聞きながら、悠真はポケットのスマホを取り出す。
〈Echo〉のアプリを開く。
——新しい通知が一つ。
“Rei:ありがとう。ステージで会えたな。”
悠真は、ゆっくりと息を吐いた。
もう返信はしない。
このメッセージを最後に、“Rei”という名前は夜の海に溶けていく。
けれど、“Rei”の声は確かに今も、自分の中で響いている。
それで十分だった。
花火が上がる。
夜空に光が弾け、遅れて音が届く。
そのわずかな時間差を、悠真は“半拍”だと思った。
風が頬を撫でる。
イヤホンを耳に差し込み、録音した今日の演奏を再生する。
音が流れ出す。
透真のハミング、自分の声、観客の拍手。
すべての音が重なって、放課後のノイズになっていく。
“音”が“人”を結び、“人”が“音”に還る。
涙が一粒、頬を伝った。
それは悲しみではなく、音の終わりに訪れる静かな余白だった。
——放課後ノイズは、まだ続いている。




