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『放課後ノイズ』 ――声で恋をした。顔も知らない、すぐ隣の人に。  作者: しげみち みり


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第1話 音が混ざる放課後

 放課後の音楽室には、いつも夕陽が差していた。

 その光は古い譜面台に縞模様を落とし、埃の粒を金色に染める。

 軽音部の練習が始まる前、御影悠真はギターケースを抱えたまま、

 部室の隅で息を殺して立っていた。

 自分の心臓の音が、弦の震えよりも大きく聞こえる気がした。


 「——じゃあ、今日も合わせるぞ。」


 その声が響くと、空気が一瞬張り詰めた。

 ボーカルの空閑透真。

 学校中の女子が名前を知る男。

 整った顔立ちもあるが、それよりも彼の“声”が人を惹きつけた。

 低く、少し掠れていて、言葉の終わりに静かな余韻を残す。

 けれど、その声の持ち主が、こんなにも冷たい人間だとは——入部初日、悠真はまだ知らなかった。


 「御影。お前、コード進行覚えたか?」


 呼ばれて顔を上げると、透真の黒い瞳が真っすぐにこちらを射抜いていた。

 教室の窓から射す光の中、彼の髪が淡い琥珀に透ける。

 そのまま見とれて、指が少し震えた。

 慌ててピックを握り直し、コードを押さえる。

 GからC、Dへ——頭では分かっているのに、緊張で指先がもつれた。


 「……すみません。」


 弦がひずんだ音を立てる。

 透真はため息をつき、わずかに眉をしかめた。


 「お前、耳が悪いのか?」


 その言葉は鋭い刃のように、心の奥に突き刺さった。

 周囲の部員たちが、一瞬だけ視線を交わす。

 “また始まった”とでも言いたげに。

 空閑透真が、他人のミスに容赦しないことは有名だった。

 けれど、悠真にとってそれは初めて浴びる冷水だった。


 「……すみません。練習してきます。」


 口の中で小さく呟くと、彼は無表情のまま「頼むよ」とだけ言った。

 その声には、苛立ちよりも、どこか諦めの色が混じっていた。


 ***


 帰り道、ギターケースが妙に重く感じた。

 夕陽が校舎の影を伸ばし、グラウンドの砂を焦がす。

 風に乗って誰かの笑い声が流れてくる。

 その中に、自分の居場所はない。

 スマホの通知が光ったが、友達からではなく、

 匿名配信アプリ〈Echo〉の更新だった。


 “今夜も誰かが歌っています。”


 悠真は思わず画面を開いた。

 知らない誰かが、知らない誰かに向けて、

 音を投げている。

 名前も顔も、年齢もわからない。

 けれど、そこでは誰もが平等で、誰もが“声”だけで存在していた。


 ——自分も、そこに混ざりたい。


 その衝動は、胸の奥で静かに芽を出した。


 ***


 夜。

 自室の蛍光灯を落とし、デスクライトだけを灯す。

 古びたギターのチューニングを確かめると、弦の金属音が静まり返った部屋に溶けた。

 録音用アプリを起動し、スマホをスタンドに固定する。

 初投稿の緊張で指先が冷たくなる。


 「こんばんは、“Yuu”です。」


 声が震えた。

 でも構わない。

 誰も本当の名前を知らない。

 音だけで世界に触れられる——それが嬉しかった。

 コードを鳴らすと、木の響きが体に伝わる。

 息を整えて、歌い出した。


  ——君の声を探してた。

   ノイズ混じりの放課後で。


 歌詞は、自分のために書いたもの。

 誰かに届かなくてもいい。

 けれど、その夜、思いがけない通知が届いた。


 “Rei:君の音、好きだよ。”


 短い一文。

 それだけで、胸の奥に火が灯ったようだった。

 返信しようとして、指が止まる。

 どう返せばいいか分からない。

 けれど、“誰かが聴いてくれた”という事実が、

 今日一日のすべての痛みを溶かした。


 “Yuu:ありがとう。”


 たったそれだけ打って、送信ボタンを押す。

 送信の音が、まるで心のノイズを消すように響いた。


 ***


 翌日、教室の窓から射す光がやけに眩しかった。

 寝不足のまま登校すると、黒板に書かれた“文化祭ライブ曲決定会議”の文字が目に入る。

 軽音部のメンバーたちはざわめいていた。

 透真が新曲を出すらしい。

 廊下でその噂を聞いただけで、胸がざわつく。

 ——もしかして、あの曲?


 昼休み。

 音楽準備室の前で透真とすれ違う。

 彼はヘッドフォンを首にかけ、スマホの画面を見ていた。

 画面には、見覚えのある配信アプリのアイコン——〈Echo〉。

 心臓が跳ねた。

 けれど、そのまま彼は何事もなかったように悠真を見下ろした。


 「昨日の練習、悪くなかったな。」


 不意にかけられた言葉に、息が止まる。

 褒められたわけではない。でも、昨日より柔らかい声だった。

 「……ありがとうございます。」

 やっとそれだけ言えた。

 透真は口元に薄い笑みを浮かべると、

 「もっと音、聴けるようになれよ」と呟いて去っていった。


 その言葉が、どこかで“Rei”のコメントと重なって聞こえた。

 まさか、そんなこと——。


 けれど、心の奥では、何かが確かに動き始めていた。


 ***


 放課後。

 夕陽の光が窓枠を赤く染めるころ、悠真は再びギターを取り出した。

 練習室には誰もいない。

 さっき透真が歌っていたフレーズを真似して、指先でそっと弦を弾く。

 音が空気に溶けて消える。

 その瞬間、扉の向こうで物音がした。

 振り向くと、透真が立っていた。

 彼は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに無表情に戻る。


 「練習、熱心だな。」


 「す、すみません。勝手に部屋使って——」


 「別にいい。俺も少し、音を確認したかった。」


 彼は悠真の隣に立ち、アンプのスイッチを入れた。

 軽いノイズが走り、二人の沈黙がその音に溶ける。

 透真がマイクを軽く叩く。

 「“放課後ノイズ”って曲、覚えてるか?」

 ——その言葉で、心臓が止まりそうになった。

 それは昨夜、“Rei”が配信で口にした言葉と同じだったから。


 「え、っと……はい、少し。」


 「今度、俺の曲にする予定だ。」


 そう言って、透真は静かにコードを鳴らす。

 彼の指は迷いがなく、音の粒がきれいに並ぶ。

 マイク越しに響く声は、昨日のコメントの人のように優しかった。


 “君の音、好きだよ。”


 その一文が、脳裏で反響する。

 まるで彼の声に重なって、同じ場所から聞こえているように。

 でも、それを確かめることが怖かった。

 もし違ったら、この温度が壊れてしまう気がした。


 透真がふとギターの音を止め、

 「御影、お前の音、悪くない。」と呟く。

 その声が、昨日のコメントと同じ響きを持っていた。

 悠真は答えられなかった。

 ただ、指先が震えて、ピックを落とした。

 乾いた音が床に転がる。

 透真はそれを拾い上げ、軽く笑った。


 「ギターは嘘つかない。弾いた分だけ返してくれる。」


 その言葉が、やけに優しかった。

 彼が“Rei”である確証はない。

 でも、もしそうだとしても、

 それを信じたいと思ってしまった自分が、いちばん怖かった。


 ***


 夜、再び〈Echo〉を開く。

 “Rei”からのメッセージが届いていた。


 〈今日の音、少し泣いてたね〉

 〈でも、それも君の音だと思う〉


 胸が熱くなる。

 誰にも言っていない気持ちを、どうしてこの人はわかるんだろう。

 スマホの画面が、まるでステージライトのように揺れて見えた。


 “Yuu:あなたの言葉で、音が好きになれました。”


 送信すると、すぐに返ってきた。

 〈俺も、君の音で人が好きになれた〉


 ——“俺も”。

 その一言で、胸の奥が静かに震えた。

 画面の向こうの誰かが、今日の自分を見ていたような気がした。

 もしかしたら、本当に“あの人”なのかもしれない。

 でも、確かめないままでいたい。

 この距離のまま、もう少しだけ音を重ねていたい。


 外では、夜風が窓を揺らしていた。

 風の音とギターの余韻が混ざり合う。

 ——放課後のノイズが、心を満たしていく。


 それはまだ、恋と呼ぶには早すぎる音だった。

 けれど確かに、

 悠真の世界を、少しずつ変えていた。

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