第一話:目覚めと召集
夢から目覚めると全身が冷や汗で濡れ、体が鉛のように重かった。なんとか体を起こして部屋を見渡す。……ここは…………私の部屋……?さっきまで冷宮にいたはずなのに……いえ、あれは前世の記憶……?自分の頬に触れると、温かみを感じる。部屋の鏡に映る顔は、冷宮で痩せ細った私ではなく、若く張りのあるものであった。すべてが現実だと実感する。
まさか本当に、やり直せる奇遇を与えられたのだろうか。実家の部屋にいるということは、まだ後宮に入ってはいないらしい。これからどうするかを考え込んでしまう。そのとき、部屋の戸が開き、侍女が足早に入ってきた。
「お嬢様、本日は宮廷に赴くようにと、皇太后様からの使いが参りました」
部屋に入ってきた侍女は彩霞であった。彼女は私が冷宮に落とされてもなお必死に助けてくれようとしてくれた。まぁ、救われることはなかったが、その想いがどれほど支えになったことか。あの後、彼女も酷い目に遭ってしまっただろう……。
きっと今日も皇太后様の体調が優れず、側に控えるよう求められたのだろう。
「彩︎霞、いつもの用かしら?」
「いえ、違うようです。とにかくできる限り早く来るようにとの仰せです」
彩霞はそう答えると、慌ただしく出仕の準備を整えに行ってしまった。いつもの務めでないとなると……何の用だろうか。想像もつかない。
ある程度の支度が終わったのか、彩霞が戻ってきた。
「お嬢様、本日のお着替えでございます」
そう言って彩霞が差し出した服は上品で、急ぎの皇太后様の元へ赴くには程よい装いだった。
「もう準備はできているのかしら?」
「はい、馬車の用意も済んでおります」
「そう。行きましょうか」
「かしこまりました」
馬車には私と彩霞の他に、侍女の一人である雪瑩も乗り込んでいた。
「彩霞姐姐、どうしてお嬢様をこんなに素朴に装わせたのでしょうか?皇太后様から賜った宝飾品もございますのに。お嬢様がそれをお付けになれば、宮中でも侮られないでしょう」
彩霞がどう説明したものかと迷っているようだったので、私の方から理由を説く。
「雪瑩、お急ぎの皇太后様に派手な装いで伺っては失礼でしょう。それに、無闇に飾り付けて注目を集めるべきではないわ」
そう言うと雪瑩はご機嫌取りをするかのように大袈裟に私を褒めた。
「まぁ、流石お嬢様!私など浅はかで、そのような気遣いは到底できませんわ」
その声音はまるで本心のよう。しかし前世を知る私には、それが嘘だと見抜いている。雪瑩はやがて、皇后に擦り寄る裏切り者になるのだから。しかし、無闇に罰を与えれば、かえって物議を醸すだけ。性根の曲がった彼女は目の届く場所に置き、見張っておくのが最良だろう。
「ところで彩霞、どういった用なのか聞いているのかしら?」
「申し訳ありません。詳しいことはわかっておりません。とにかく急ぎだと伺っております。……ただ、お嬢様が一度皇太后様の元に行かれれば、冬至を宮廷で過ごすことになるかもしれません」
冬至……皇太后様からの招集……彩霞のその言葉で今が一体いつであるかを思い出した。たしか、この召集で私が陛下の妃に推薦されるはずだ。どうしたことか……。
そう思い悩む間もなく、馬車の小窓から宮廷の門が見えてきた。冬の冷たい光に照らされた庭園には雪がうっすらと積もり、石畳が淡く光を反射している。皇太后様の住まいである太極宮へと続く道の両脇には紅や金の幕が張られ、厳かな空気が漂っていた。
その光景を目にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。美しい宮廷の様子とは裏腹に、ここは前世で何度も私を苦しめた場でもあった。
「雪瑩、そろそろ宮廷に着くからお嬢様の身だしなみを整えて」
「はい、彩霞姐姐」
雪瑩が私の髪や衣服などの細かい部分を丁寧に直してくれる。この子はいつから皇后の手先になるのだろうか……ふと、そんな益体のないことを考えてしまう。前世での裏切りが、どうしても頭をかすめるのだ。
そんなことを考えている間に、宮門に到着した。冬の光に照らされた門前には、静かに侍女たちが待っていた。
「お待ちしておりました。では、案内させていただきます」
馬車を降り、案内の侍女に従って太極宮の正門をくぐる。厚い朱塗りの扉は厳かに開かれ、淡く光る冬の庭園が眼前に広がる。白い雪の上に残る足跡が、誰もが足を踏み入れることの許されない厳粛な空気を物語っていた。
「こちらへどうぞ、お嬢様」
侍女の声に促され、私は慎重に石畳を進む。廊下の両脇には赤や金の絢爛な装飾が施され、細やかな刺繍の屏風が並ぶ。静寂の中に僅かに聞こえる私たちの足音が、余計に宮廷の重厚さを際立たせていた。
やがて奥へと進むと、前方に広がる大きな扉が見えてきた。太極宮の正殿へ通じるものだ。案内の侍女が足を止め、恭しく頭を垂れる。
「これより先は、お嬢様おひとりでお進みくださいませ」
「わかったわ。彩霞と雪瑩はここで待っていて」
「はい。お待ちしております」
彩霞の静かな声に励まされ、私は一歩、また一歩と扉へ近づいた。重厚な扉が音を立てて開かれ、冬の冷気がわずかに流れ込む。
中は外よりも静謐で、薄く甘い香木の香りが漂っていた。床には金糸の織り込まれた絨毯が敷かれ、両脇に控える女官たちは一糸乱れぬ礼を取っている。その中央、奥の高座には皇太后様が座しておられた。
青絲の髪に玉の簪を挿し、衣は深い紫に金糸の唐花模様。威厳に満ちていながらも、その眼差しには人を見透かすような静けさが宿っている。
「……参りましたか」
その一言が広間に響き、女官たちが一斉に頭を垂れた。私はその言葉を受けて深々と跪く。
「拝謁いたします、皇太后様」
「よしなさい。私には跪かなくてよいと常から言っておるでしょう」
その柔らかい声に少しだけ肩の力が抜ける。
「ありがたきお言葉にございます」
皇太后様はゆるやかに頷き、傍に立つ侍女に目配せした。侍女が進み出て、私の前に湯気が立つお茶を置く。
「道中、冷えたでしょう」
「……ありがたく頂戴いたします」
礼をしてから両手で茶碗を包み込む。一口飲むと、緊張がわずかに和らいだ。顔を上げれば、皇太后様は静かに目を細め、慈しみに満ちた笑みをたたえていた。
「其方、そろそろお相手を決める年頃ね。気になる殿方はいるのかしら?」
「いえ、そういったことには疎くて……」
「そう」皇太后様は軽く頷き、指で扇を軽く叩く。
「ならば私がお相手を見繕ってあげたいと思うのだけれど、どうかしら?」
「それは……迷惑ではないでしょうか」
「迷惑なわけないでしょう。其方のことは娘同然に思っているのですもの。それに、美しい上に聡明な其方を好ましく思わない者などいないでしょうに」
「……それはそれは、本当にありがたきお言葉にございます」
胸の奥にざわつきが広がる。前世の記憶が頭を掠め、嫌な予感が拭えない。
そんな私の心を見抜いたように、皇太后様は静かに笑みを深めた。
「後宮に入って……私の息子の嫁になってくれるかしら?」
その言葉が、胸の奥で小さな衝撃を走らせた。前世の記憶が頭を掠め、あの冷宮での孤独と絶望がよみがえる。だが今の私は、生き返ったこの体で、同じ結末を繰り返すわけにはいかない。しかし……ここで断れば実家にも影響が及ぶだろう。……受けるしかない。
深く息を吸い込み、私は静かに頭を垂れる。
「……承知いたしました、皇太后様」
前世の過ちを繰り返さぬよう、私はこの瞬間から生き方を変えねばならない。
……こうして、私の新たな物語は幕を開けるのだった。