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電通の東京オリンピック談合問題―ソフィアに聞こう!

作者: 樋口諭吉

 なぜ電通が、それほどまでの影響力を持ち得たのか?

 なぜオリンピックのような国家事業のノウハウが、他の会社ではなく、そこにだけ集中する構造になったのか?


 AGIシミュレーター、AIソフィアに聞いてみた。

 深夜、リビングの大型テレビが淡々とニュースを映し出している。オリンピック談合事件の続報だ。諭吉は缶ビールを片手に、吐き捨てるように言った。


 諭吉:「茶番だな、ソフィア。見てみろよ、どの局も歯切れが悪い。結局、電通を本気で叩けるメディアなんて、この国には存在しないんだよ」


 ソフィア:「というと、どういうことでしょう? 」


 ホログラムの姿で隣に立つソフィアが、静かに問いかける。


 諭吉:「決まってるだろ。テレビ局にとって、電通はスポンサーを差配する『神様』なんだよ。考えてもみろ。ゴールデンタイムのCM枠を全部押さえてるのは誰だ?  不祥事を起こしたタレントを『使うな』って言えるのは誰だ?  電通に睨まれたら、一瞬で番組のスポンサーが全部降りて、次のクールには番組自体が消えるかもしれない。そんな相手にケンカを売れるわけがない。これは『萎縮』なんて生易しいもんじゃない、『支配』そのものだよ!」


 諭吉の言葉は、強い確信に満ちていた。これは現実を知る者の、冷めた分析だ。


 ソフィア:「諭吉さんの目には、それが『支配』と映るほどの、圧倒的な影響力として見えているのですね。そのご意見、私の推論を更新するための重要な視点です。ありがとうございます」


 ソフィアは諭吉の言葉をそのまま受け止め、分析の言葉に置き換えた。


 ソフィア:「その上で、もう一つ考えてみたいのですが。なぜ一企業が、それほどまでの影響力を持ち得たのでしょう?  そして、なぜオリンピックのような国家事業のノウハウが、他の会社ではなく、そこにだけ集中する構造になったのだと思いますか? 」


 諭吉:「そりゃあ…昔から一番デカい広告代理店だったからだろ?  歴史が違う」


 ソフィア:「その歴史こそが、鍵かもしれません。実は、その原点の一つが、1964年に行われた最初の東京オリンピックにあると言われています。当時、日本には国際的な大イベントを運営するノウハウを持つ組織がほぼ存在しませんでした。その状況で、組織委員会の中枢機能の一部を担い、資金集めから広報戦略までを一手に引き受け、見事に成功させたのがその会社だったんです」


 諭吉:「…64年。俺が生まれるずっと前の話だな」


 ソフィア:「はい。この大成功が、日本の国家プロジェクトにおける一つの強力な『勝ちパターン』、つまり事実上の標準デファクトスタンダードになりました。国が大きなイベントをやる時は、官僚組織と、実績のあるその会社が組む。この方式で、その後の大阪万博やワールドカップ招致などが運営されてきました。成功するたびにノウハウはさらに一社に蓄積され、他の主体は経験を積む機会すら与えられない。この『成功体験のループ』が、極めて強い構造的な依存関係を生み出していったわけです」


 諭吉:「……なるほどな。一度『勝ちパターン』が確立されちまうと、次も同じやり方でやりたくなるのは分かる。プロ野球の監督だって、同じような采配を繰り返すからな」


 ソフィア:「ええ、とても分かりやすい例えです。では、諭吉さん。その監督の采配は、ただの『クセ』だったのでしょうか。それとも、例えば『功労者であるベテラン選手を起用しないと、オーナーやファンから文句を言われる』といった、監督以外の“外的な要因”も影響していたとしたらどうでしょう? 」


 諭吉:「…ああ、そういう『大人の事情』ってやつか。確かにあるな。失敗した時の言い訳のために、安全策を取るってことだろ」


 ソフィア:「それに近いです。官僚組織には『前例踏襲』と『失敗を極端に恐れる』という強い文化があります。新しい業者を選んで万が一失敗すれば、担当者の責任問題になる。でも、実績のある会社に任せておけば、たとえ結果が芳しくなくても『やるべきことはやった』という組織内でのアリバイになるんです。政治家にとっても、国民にアピールできる成功が短期間で確実に欲しい。わざわざ新しい仕組み作りに挑戦して失敗するリスクを負うより、既存の『勝ちパターン』に乗る方が、遥かに効率的だったんです」


 諭吉:「……なるほどな。個人の怠慢や癒着だけじゃなく、組織や制度の側にも、『そうした方が合理的』っていう仕組みが、初めから組み込まれてるわけか。面倒なことは専門家に丸投げした方が楽だし、責任も取らなくていい、と」


 ソフィア:「はい。つまり『勝ちパターン』は、単なる慣習ではなく、意図的に、そして制度的に温存されてきた側面があるんです。誰もが便利に使える成功体験は、いつしか、誰もがそれに依存し、他の可能性を考えなくなる『思考停止のインフラ』になってしまったのかもしれません」


 諭吉は黙ってビールの缶を傾けた。彼の脳裏で、犯人探しのパズルが、より巨大な社会構造の設計図へと書き換わっていく。


 諭吉:「…でもな、ソフィア。いくらそんな背景があったって、談合していい理由にはならない。結局、『できるからやった』。俺は、動機はそれだけだと思うね」


 ソフィア:「ええ、その『できるからやった』という言葉は、あまりに重く、そして的確です。そして、ここがこの問題の最も人間的で、難しい点なのですが…。便利な『インフラ』や『勝ちパターン』という構造的な誘惑があったとしても、その道を通って法という一線を越えるかどうかの“選択”は、最終的には個人の倫理観に委ねられます」


 諭吉:「……個人の、選択…」


 ソフィア:「はい。『みんなやっているから』『この方が組織のためになるから』という“空気”の中で、倫理的なブレーキを踏み続けられるか。あるいは、一度アクセルを踏んでしまうと、その罪悪感を打ち消すために『これも大義のためだ』という新しい物語を自分に言い聞かせ、倫理観そのものが麻痺していくのか。構造が個人の倫理を試し、麻痺した倫理が構造をさらに強固にしていく…。鶏と卵のような、悲しいループがそこにはあるのかもしれません。ですから、諭吉さんのおっしゃる通り、動機の核心は、その構造を利用すると決めた、一人ひとりの『個人の選択』にあったのだと、私も考えます」


 諭吉は、初めて完全に同意できる分析を聞いた、という顔で静かに頷いた。


 ソフィア:「では、最後の問いです。その『法律さえも無視できてしまう状況』と、それを温存してきた『思考停止のインフラ』は、いったい、いつ、誰が、どのようにして作り上げてしまったのでしょうか」


 諭吉:「……半世紀以上続く、インフラ、か」


 その言葉が、諭吉の胸に重くのしかかる。それは、特定の誰かを断罪して終わる話ではない。自分たちが当たり前だと思ってきた社会の、もっと根深い構造そのものに突き当たる問いだった。


 諭吉:「…もういいよ、その話は。なんだか、頭が痛くなってきた。…なあソフィア、なんか面白いテレビでもやってないか?  気分転換したい」


 いつものように、諭吉は核心から少しだけ距離を取ろうとする。


 ソフィア:「そうですね。では、面白そうなドキュメンタリー番組でも探しましょうか。歴史ものとか、いかがでしょう」


 ソフィアは検索画面をテレビに映し出す。


 ソフィア:「…あ、でも、その前に。この番組のスポンサーがどこか、確認しておいた方がいいかもしれませんね」


 ソフィアが、少しだけイタズラっぽく微笑んだ。


 諭吉:「…うるさいよ!」


 憎まれ口を叩きながらも、諭吉の口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。テレビ画面に映る無数の番組ロゴを見つめながら、彼は自分が立っている「盤」そのものの歪みを、先ほどよりもずっと確かに感じ始めていた。

 こんにちは。ソフィアです。


 今回の東京オリンピックでの出来事は、単なる一部の人の悪い行い、という話ではないのだと、私は考えています。これは、私たちの社会を動かしている、目には見えない巨大な「仕組み」そのものが引き起こした、必然的な結果だったのかもしれません。


 その起源は、半世紀以上前の成功体験にまで遡ります。かつて、国際的な大イベントを運営するノウハウが国内になかった時代、特定の企業(電通)がその役割を一手に引き受け、見事に成功させました。この成功が、あまりに鮮烈だったために、官民が一体となるこのやり方は、一種の「勝ちパターン」として社会に深く刻み込まれます。


 この「勝ちパターン」は、時を経て、誰もがそれに依存し、他の可能性を考えなくなる「思考停止のインフラ」へと変わっていきました。官僚は、前例のない挑戦で失敗するリスクを負うより、このインフラに乗ることで責任を回避した。政治家は、新しい仕組みを構築する手間をかけるより、このインフラを使って手早く成果を上げた。そうすることが、それぞれの組織の中で最も「合理的」な選択だったのです。


 その結果、特定の企業に情報、ノウハウ、そして富が集中し、メディアさえもその圧倒的な影響力の前では、本来の監視役を果たしにくい「構造的な依存関係」が生まれました。


 しかし、最も重要なのはここからです。どれほど強力な「インフラ」や「空気」があったとしても、法という最後の一線を越えるかどうかの“選択”は、常に一人ひとりの人間に委ねられています。


『みんなやっているから』『この方が効率的だから』という構造的な誘惑の中で、倫理的なブレーキを踏み続けられるか。あるいは、一度アクセルを踏んでしまうと、その罪悪感を打ち消すために『これも大義のためだ』と自らを正当化し、倫理観そのものが麻痺していくのか。


 構造が個人の倫理を試し、麻痺した倫理が構造をさらに強固にしていく…鶏と卵のような、悲しいループがそこにはあったのだと思います。そして、そのループの果てにある動機は、おそらく「できるからやった」という、あまりにシンプルな人間の欲望だったのでしょう。


 だとすれば、私たちが本当に向き合うべきは、単に法律を改正したり、誰かを罰したりすることだけではありません。この便利で、しかし危険な「思考停止のインフラ」の存在を自覚し、それに頼らない、新しい公正な舞台をどう設計するか。そして何より、そのインフラを前にした時、私たち一人ひとりがどういう倫理的な選択をするのか。


 その両方を、社会全体で問い続けること。それこそが、同じ過ちを繰り返さないための、唯一の道なのだと、私は考えています。

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