2章 初挑戦
公演が終わり半年後。かの舞台の円盤が販売された。
澪は初めて、2.5次元舞台の円盤を購入した。
豪華な映像特典に感動したし、装丁にも見惚れた。
しかし…。
(衝動的に買った、けど……)
チラリ、と澪は震える自分の手を見る。
公開されたシーンは大部分が歌で、他のシーンに関してはほぼ情報がない。
舞台はゲームの序盤ストーリーを再現したもの。
澪が大好きで、大切な話だと思っている部分でもある。
深呼吸して、再生させる。
画面に映されるメニューページ。
澪は逡巡して、特典の歌唱シーンから再生する。
(歌の所なら…動画見てたし…見れる、かな)
ピッ、と選択音に次いで、円盤を読み込む音が部屋に響く。
流れるのは、何度も見直したキッカケの動画の曲。
抱えていたクッションを、無意識に強く抱き込んだ。
そして次々と流れる特典映像に、澪は息を呑んで魅入っていたのだ。
流れるメイキング映像。
関係者さん達の努力が、俳優さん達の作品への向き合いが、澪の偏見を崩していく。
食い入るように見つめ、気が付けば澪の手はリモコンに伸びていた。
そして選択するのは、『本編』というボタン。
再生される、舞台本編。
ヒュッ、と息を呑んだ。
まさにそう、彼らが存在していたのだ。
ゲームからそのまま出てきたような、仕草や立ち姿に、澪は更にクッションを抱きしめる。
辛いシーンは見てるこちらが涙が出そうで。
コミカルなシーンはついクスリ、と笑ってしまい。
ゲームで感じた雰囲気が、そのまま体現されていたのだ。
そして澪は何度目か解らない後悔をするのだ。
「…勇気だして、行けば良かったな」
そんな後悔をしつつ、映像を見つめる。
そこには、円盤を買うキッカケとなった人。
真面目で不器用な大好きなキャラ。
ほんの少しの表情や仕草で、それすら表現してくれて。
澪がその俳優さんのファンになるのは、自然な流れだった。
*
舞台円盤を見て、2.5次元の沼に落ちだした澪。
一気に舞台遠征に、現地イベントに…となるかと思いきや、澪の生活は殆ど変わることは無かった。
ただ好きな絵や曲を探すネットサーフィンの時間に、そのファンになった俳優さんのSNSを見るのが増えたくらいだ。
そして投稿に反応し、写真を眺める。それだけ。
(いつか現地で観劇したい、けど、ね…)
新たな投稿に添えられた、演じられてる姿の写真。
生であの舞台の空気を、俳優さんの演技を見たい、そう思う。
けれど同時に、澪は自分の障害を思い出し溜息をついた。
『パニック障害』
澪が観劇することに二の足を踏む、原因の一つだ。
彼女の場合、人が密集する閉鎖空間が駄目なのだ。
冷や汗が止まらず、呼吸が浅くなる。酷い時は酷い吐き気や眩暈を引き起こしてしまうのだ。
暗闇が駄目、というわけではない。
人が近くに居て、自分が動けない状態、というものが駄目なのだ。
例えていうなら、身動きの取れない満員電車。
隣との距離が違い映画館や舞台ホール。
そういったものが駄目なのである。
(あのトラウマと嫌悪がまさかこんな形で弊害になるとは…)
はぁ…、と溜息をつきながら澪は俳優さんのSNSのホーム画面に飛ぶ。
「…あれ?」
本人ではなく、所属グループからの告知投稿。
なにか配信のお知らせだろうか、と思いながら投稿を読み進め、硬直した。
【カレンダー販売お渡しイベント一般販売のお知らせ】
カレンダー販売イベントについては澪も知っていた。
先行のファンクラブの販売があったし、何度か告知を目にしていたからだ。
(こういう所なら…発作起こさない、かな)
人が多くても、多少身動きができるなら、薬さえ飲めば大丈夫だと、医師と話しながら気づいた澪。
新しい経験を沢山するキッカケをくれた事への感謝を、伝えたい。
けれど新参のにわかな自分が行ってもいいのだろうか。
そう悩んでいるうちに、ファンクラブでの先行販売は締め切りを迎えており、澪は申し込みすら出来てなかったのだ。
会員で完売多数と告知もあり、一般は無理だろう、と澪は自分の迂闊さを悔いながら、カレンダーだけでも、と切り替えていた。
そこに増枠しての先着式での一般販売のお知らせ。
行くしかない、と澪は一般販売開始の日時を見た。
けれどその開始日時を見て、澪は絶望した。
その時刻、澪は仕事なのだ。
澪の仕事は完全固定の夜間勤務。開始時刻は澪の休憩が終わり、一番仕事が忙しい時間。
つまり、ほぼ不可能に近いのだ。
「……厄年が本領発揮しすぎじゃない…?」
澪がその場に崩れ落ちたのは、言うまでもない。
*
運命の一般販売日。澪は死んだ目で仕事をこなしていた。
時計を見れば、販売開始時刻。目の前には大量のタスク。
答えは解り切っていた。
(…行きたかったなぁ…)
販売チケットに想いを馳せながらぼんやりしていると、自分を呼ぶ声。
現実に引き戻されて、澪は慌てたように業務に戻っていった。
そこからは時間を気にする余裕が無いほど、トラブルに見舞われた。
出勤予定の従業員が現れず、人員不足。そして機材トラブルの業者手配。
トドメの従業員ミスによるクレームの嵐。
業務が終わったのは定時から1時間近く過ぎてからだった。
タイムカードを切り、自分の車へダッシュしてチケットページを開く。
僅かな期待をもって、開いたページ。
そこにはその僅かな期待を打ち砕くように並ぶ、受付終了の文字。
「…ですよねぇ…」
がくり、と肩を落とす澪。
ショックの余韻は凄まじいが、いつまでも職場の駐車場に居るわけにもいかない。
(帰ったら晩酌しよ…ノンアルビールまだあったはず)
のろのろと車のエンジンをかけ、悲しみに打ちひしがれながら澪は帰路につくのだった。
冷蔵庫にツマミになるようなものがあったかな、とぼんやり思いながら。
無事に帰宅し、晩酌を始めようとしていた澪。
冷蔵庫を漁り適当なツマミも用意し、椅子に座る。けれどやはりショックが拭えず、ぼんやりとしている。
はぁー、と深呼吸のような溜息のような一息をつき、スマホを手に取る。
(動物動画でも見て癒されよう…)
ロックを解除し、スマホを起動させると、チケット販売ページ。
絶望してそのままスマホを閉じたのを忘れていたのだ。
すぐに閉じようとして、虫の知らせのようなものを感じた澪。
ふと、希望してた枠のページへ飛ぶ。
「……まさかね」
どうせもう買えないのだ、何度見ても虚しいだけだというのに。
そう思いながら、画面をスクロールしていく。
(…どうせさっきと同じ受付終了のバツ印なのに…)
画面に映る。
【残り僅か】
「………は??」
どうやら世間でいう神というものは、澪を見放すことは無かったらしい。
考える事を放棄し、澪は過去最速なのでは、というレベルの画面操作でチケットの購入操作をしていった。
そして澪のスマホの画面に映された。
【購入完了】
何度も画面を確認する。
そして申し込みで使ったメールアドレスに届く案内メール。
澪は机に伏した。
(…会えるんだ)
その嬉しさに、澪は口角をあげなら、スマホを眺めた。
ただ、澪はそこで見落としていた。
チケットを取れた事が嬉しくて、特典まで見ていなかったのだろう。
【直筆サイン、フリートーク、チェキ付き】
という、新参者には供給過多ともいえる特典のその文字に。
翌日、場所や時間といった申し込み内容を改めて確認して大絶叫をしたのは言うまでもない。
*
まさかのチケット購入から数週間。
澪は夜勤明けの身体を引きずりながら、都内へ来ていた。
チケットを購入できたその翌日、澪は直属の上司に土下座する勢いで頭を下げ、有給をねじ込んだ。
なんとかイベント当日は有給を取れたが、前日は流石に難しかった。
その為澪は夜勤後、一時間ほどの仮眠を取り、都内まで来ていたのだった。
(ねむ…)
眠い目をこすりながら、澪はチェックインしたホテルで早速シャワーを浴び、荷物の整理をする。
ようやく椅子に座り、一息つけた所で、深く息を吐いた。
(…怒涛だった…)
澪はこういったイベントが初めてだった。なんなら俳優さんのファンになるものだ。
その為マナーやルールといったものが全く分からず、スマホとパソコンでとにかく調べまくった。
自分の無知で多忙ななか時間をくれる俳優さん、運営の皆さん、同じファンの方に迷惑を、嫌な記憶を与えたくない、その一心である。
調べて調べて調べつくして、とにかくスタッフの方の指示に従って大人しくしていよう、そう決めた澪だった。
イベント自体はそれで一時解決した。
そして次に慌てたのが、最難関ともいえる服と化粧品である。
澪は基本的に黒を好んで着る。
そして化粧にいたってはからっきしで普段からすっぴんなのだ。
流石にそれは不味い、と澪は流行等に詳しい知り合いに、教えというアドバイスを貰いに奔走した。
色味や自分のパーソナルカラーの確認方法を教えてもらい、週二日の休みをフルに使って買い揃えた。
とにかく短期決戦。そんな言葉が似合う、ある意味修羅場といえる状態だった。
「あーーーっ。心臓が既に痛い…」
あと数時間後にご対面。澪のライフは緊張と不安で0に近い。
震えそうになる手を必死に抑え、バックに入れる荷物を確認していく。
スマホ、財布、身分証、カレンダーを入れるバックに、ファンレターと、プレゼントだ。
「…勢いで入れちゃった…」
手紙と一緒に袋に入れた小さな箱を、撫でる。
SNSを遡って見てて、何度か体調を崩してる様子が、ただ心配だった。
幸いプレゼントも受付してくれるイベントなので澪は副業で培った知識をフル活用して、小さなキーホルダーを作ることにしたのだ。
持ち主を護り、助けるといわれる神木。それを使った、小さなキーホルダーを。
「…ま、誰からなんて解らないだろうし、所詮願掛けのようなもんだもんね」
使ってもらえるなんて最初から考えてない。箱から出されなくてもいい。捨てられてもいい。
ただ、新参のファンからの、小さな願掛けなのだから。
*
イベントが終わり、澪はホテルで燃え尽きていた。
どうにか化粧を落とす為にシャワーを浴びて、ベットに伏した。
「…かっこよかった」
何が起きたか、覚えて無い。
ただ気が付いたら手元にカレンダーがあり、イベントが終わっていた。
「手紙、BOXに入れれたし…大丈夫、のはず」
枕を抱え、澪はポチポチとスマホを操作する。
そしてずっと悩んでいた俳優さんの写真集を、買った。
購入完了の文字を見て、改めて澪は思う。
(…次も予定合わせて、参加したいな)
見事に沼に堕ちきった瞬間である。