『ごめんね』
「お姉ちゃん」
あの日、どうして私は『あの子』の手を引かなかったんだろう。
「久しぶりだね♪」
__ごめんね。
「美桜?どしたん?」
赤々としたマークがついた手の甲から視線を外すと、友人である空音と目があった。
少女のあの放送後、空音に誘われ『鍵探し』をしていた。
「ううん。なんでもない。それより、鍵あった?」
薄暗い体育館倉庫から出てきた空音は、首を横に振った。どうやら無かったようだ。
「ほんと、どこにあるんだろー」
「思ったんだけど、鍵なんて見つけて何かあるの?」
「さあ?でも、クラスの男子が言ってたんだけど、学校の周りに見えない壁があるとか言ってたから脱出ゲームから抜け出すための鍵とかじゃない?」
「そうかも…」
次どこ行く?と聞こうとした途端、目の前で空音が崩れ落ちた。
「痛っ」
「えっ、大丈夫?」
空音が足首を押さえてうずくまっている。その手の指の間から、赤々とした血が流れていた。
「わっ、私、保健室の先生呼んでくるよ!空音はそこでじっとしててっ」
頷いた空音をそこに残したまま、私は校舎へと走った。
__背後に響いた銃声は私の耳には飛び込まなかった。
やけに人気のない校舎をただただ走った。幸い、保健室は昇降口の隣にある。
ノックをするのも忘れ、勢いよく保健室の扉を開けた。
「先生!空音がっ」
扉を開けた途端、異臭が鼻を刺した。錆びた鉄の臭い。
開け放たれたカーテンの向こうに目をやった。
「っ」
ベッドの周りに血で染まった生徒が三人倒れていた。そしてベッドには頭から血を流した女子生徒が、眠るように横たわっていた。
「ねえ、だいじょ」
氷を触ったかのように冷たい。思わずその子に触れた手を引っ込めた。
吐き気がして私はそのまま保健室を飛び出した。
何も考えられずに走っていると、一つの教室が目に入った。
その教室は他と全く違っていた。廊下に面した窓は、土が張り付いていてよく見えない。
もしかしたら人がいるかもしれないという淡い期待を寄せて、そっと戸に手を伸ばした。
「見ちゃだめ!」
戸を開ける寸前、背後から声が飛んだ。視界が一気に暗くなった。それと同時に、暖かさが体を包みこんだ。
「あ、あの…」
と、声を出すとぱっと暗闇が消えた。開かれた視界には、顔を青白くした女性の先生が立っていた。
「関、先生…?」
「っごめんね。急に声かけたりして」
バツが悪そうに顔を俯かせる先生に私は首を振った。
「大丈夫です。それと、あの、空音がっ」
先生と共に空音がいる体育館倉庫に向かった。
心はなぜか穏やかだった。そう、夢を見ているような感じ。さっきまで感じていた恐怖も吐き気も無くなっていた。
「……壊れちゃったのかな」
倉庫の影が見えてきた。
顔を上げると、ただの血溜まりしか無かった。肉片が転がっているただの血溜まり__
「っ……げほっ………」
口に手を当てた。べっとりとした感覚が鳥肌を立たせてくる。
「そ、ら…ね………」
__そらね?誰のこと?分からない?誰?だれ?__私、何してたんだっけ。
「美桜ちゃん!」
肩が大きく揺さぶられた。
全身に付けられていた重りから解放されるような気がした。
「わた、し……」
口に残った血が呼吸をする度に喉を締め付けてくる。
「大丈夫、大丈夫だから」
__何が、大丈夫なの?
手を伸ばしてくる先生の手を振り払った。乾いた音が響く。
先生は驚いた顔をして目を伏せた。
短い沈黙。
「ごめんなさい。貴方のこと考えてなかった。…少し、頭を冷やしてくるわね」
掠れた声。その中に震えも混じっていた。
先生は音もなく立ち上がり、私に背を向けて歩いて行ってしまった。
固く閉ざされた扉に触れた。
__空音は、もう、いない。
「……どうして、泣けないんだろう」
ぽつりとこぼれた言葉は、歌声によって掻き消された。
『〜♪〜♪〜♪……』
繊細で今にも消えてしまいそうな声。それでいて、聞いたことのある歌声。
何故か分からないけど、嫌と言うほど心を締め付けてくる。
__そういえば、『あの子』は音楽の天才だった。
庭園に咲く真っ赤な薔薇が綺麗だった時。空が灰色に包まれた時。使用人が死んだ時。
必ず『妹』は歌っていた。胸の前で手を合わして悲しそうに。
透き通る声だった。カタコトでしか喋れない私と違って綺麗なフランス語だった。それに、綺麗な金髪で吸い込まれそうな青い瞳。そんな『妹』に憧れていた。
「〜♪〜♪」
『妹』は天才だった。特に音楽は誰もが天才と謳ったほどだ。
ある日、『妹』と話したことがあった。
「×××は天才でいいよね」
褒めたつもりだった。
「お姉ちゃんは愛されてていいね」
冷たい声で返された。嫌われていたこともその日に知った。
その日から、『妹』と話すことはなくなった。こっそり歌声を聴くことも。
__だから、『妹』が死んだ時もなんとも思わなかった。
『……〜♪〜♪〜♪』
放送から聞こえる歌声に包まれた廊下を行く当てもなく歩いた。
「思い出したと思ったんだけどな…」
手の甲を上にかざした。赤々としたマークは付けられたときより薄くなっていたが、完全には消えていない。
「ダイヤの、7」
それが何を指すかは分からない。
「変なの」
考えるのをやめかけた時、足が止まった。
「〜♪〜♪」
スピーカーからじゃない。もっと近い。歌声が聞こえる方へ視線を向けた。
「音楽室…?」
引き戸を開けた途端、歌声は消えた。まるで分かっていたかのように。
「なに、これ…」
広がった世界は言葉を失うほど綺麗だった。床一面には青い彼岸花が咲き誇り、崩壊した壁や天井を這うように生き生きとした蔦が絡みあっていた。その中に、トランプが無造作に散らばっていた。
息の仕方を忘れてしまうほど美しい景色に見とれ始めたときだった。銀色に光る何かがこちらに向かって迫っているのに気がついた。…避けれない。
「美桜ちゃんっ___」
頬に温かいものが落ちた。無意識に指先で拭った。血だというのは上を見上げてから気付いた。
私を庇うように手を広げて立つ関先生がいた。
「ひゅ…っ………」
先生の胸元からは刃が突き出ていた。刃先からは血が溢れていた。
その時、先生はへらりと、まるで冗談を言うみたいに微笑んだ。
拍手が鳴り響いた。
「おめでとう♪」
その声と共に、目の前の先生が簡単に投げ飛ばされた。
再び、あの光景が目の前に広がる。
「お姉ちゃん」
青い彼岸花を踏みつけながら声の主は私の前に立った。
深い赤に黒を基調としたワンピースドレスに身を包んだ少女が、私をじっと見つめてきた。流れるような金髪と、吸い込まれそうになる青い瞳。
「久しぶりだね♪」
__知ってる。声もその瞳も、立ち振舞も、その服も、全部知ってる。
ああ。でも、名前が思い出せないな。何だっけ…、ああ、そう_
「ユイラ」
そう言った瞬間、少女_ユイラの冷たい声が飛んだ。
「…ふーん、覚えてたんだ」
その言葉が重りのようにのしかかる。私は視線から逃れるように俯いた。
蔦が逃さないと言わんばかりに足に絡みついてきた。
「い、今まで、…忘れてて、ごめ、ん……」
うまく言葉が出ない。肺を握りつぶされるような感覚がする。
「じゃあ、話をしよ。お姉ちゃんはどこまで覚えてる?養子に入ったところ?わたしが塔に閉じ込められたところ?お姉ちゃんがメイドと逃げたところ?わたしの両親が死んだところ?自分が死んだところ?それとも、何も覚えてないの?」
「私はっ」
肩に強烈な痛みが走る。
「煩い」
反射的に顔を上げると銃を持ったユイラが私を睨みつけていた。
その瞳は全く綺麗じゃなかった。闇を呑み込んだような青。
「まあいいや♪どうせ、最初でも最後でもお姉ちゃんは必ず殺すつもりだったから」
「や、やめて!来ないでっ」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
日本人のお姉ちゃんは元々孤児だったらしい。子供ができないと嘆いていた両親がわたしが生まれる前に、家に連れてきて実の子供として育てていた。7年後、わたしが生まれてからもずっと。両親はフランスの中では名のある貴族で、街から少し離れた土地に大きな屋敷を建てた。一年中花が咲く広大な庭に、塔付きの屋敷。両親は優しいし、誰もが憧れるような夢のような暮らしだった。そんなある日、一人の占い師が来た。如何にも怪しそうな人間だったが、心優しい両親はその占い師を家に招き入れた。占い師は父、母、義姉と占っていった。最後はわたしだった。わたしは当時は7歳だった。父親譲りの金髪に母親譲りの可愛らしい顔立ち。そして、誰もが憧れ、羨ましがった青い瞳を_占い師は『不吉』と称した。父はすぐにその占い師を屋敷から追い出した。母はわたしを抱きしめた。大丈夫、と。でも、大丈夫じゃなかった。わたしと関わった使用人が次々と命を落とした。その次は父の会社が倒産した。母が流行り病で亡くなった。8歳の誕生日、わたしは塔に閉じ込められた。殺さなかったのはきっと、父の優しさだろう。義姉は一人のメイドとともに日本へ逃げた。わたしが塔に閉じ込められてから半年もたたずに、姉は災害で死んだ。父も使用人も死に、屋敷は廃れた。そしてわたしは塔の窓から身を投げ出した。
「まあいいや♪どうせ、最初でも最後でもお姉ちゃんは必ず殺すつもりだったから」
「や、やめて!来ないでっ」
お姉ちゃんの声は馬鹿らしいほど震えていた。
「さよな_」
「流石にあっさりとしすぎなのではないでしょうか、お嬢様」
苦笑じみた声に引き金を引く手が止まった。
横を見ると、鎌に付いた血を拭いていたモラールと目があった。
「…どう殺そうが、わたしの勝手でしょ。それにもう死んでるんだし」
「ワタクシはもっと愉しみたいのですが」
「ふーん、いいよ♪ね、お姉ちゃん」
ガクガクと震え続けるお姉ちゃんに銃弾を撃ち込んだ。
「馬鹿なお姉ちゃん」
飾りになった右腕を抑えながら必死にうずくまっている。
「お姉ちゃんはもう死んでるんだよ♪」
「ユイ、ラ。許して…ごめんなさい」
「…その言葉が一番嫌い。なんで謝んの?なんで逃げるの?」
お姉ちゃんの前にしゃがんで目を合わせようとした時、ガクッと震えた後動かなくなった。
「あれ?死んだ?」
「いえ、これは意識を失っただけでしょう。ですが出血がひどいのでそのまま命を落とす可能性もあるでしょう。どうしますかお嬢様」
「…………」
「?お嬢様?」
手がカタカタと震える。握力も失い、手から銃が落ちた。
青い彼岸花の海に異質な輝きが落ちた。
「ふふっ。…あははは!」
滑稽。愉快。笑止。讃嘲。奇矯。妙趣。戯画的_。
どんな言葉を並べてもこの感情に勝るものはない。
「お嬢様らしいですね。もう行きますか?」
モラールが大鎌を片付けながらそう言った。
「まだだよ。これからがお楽しみだよ♪」
お姉ちゃんの瞼がゆっくりと開いた。わたしに見向きもせず、足元に落ちた銃に手を伸ばしてきた。
「!マークが消えてる…」
お姉ちゃんの手にわたしの銃が収まる。
「こん、な」
ボロボロの手足で立ち上がると、こめかみに銃口を当てた。
「こんなお姉ちゃんで、…ごめんね」
引き金が引かれたのと同時に、お姉ちゃんは灰になって消えていった。
『__らい。_でま_の。___』
…風が止んだ?土の臭いも草の匂いもしない。それに、どこも痛くない。
目を開けると、人のざわめきが見慣れた音楽室と共に聞こえ始めた。
「美桜ちゃん、どうしたの。急に立ち止まっちゃって。朝練始まるよ」
グランドピアノ、床に置かれたそれぞれの楽譜。フルートやサックスを手に練習する仲間たち。
「あ、あれ?…おかしいなぁ、なんで涙が」
そうだ。あれは『悪夢』だったんだ。
「もー篠原部長ったら。明日コンクールだから緊張してるんですか〜?」
「へへっ、ごめんごめん。練習しよっか」
篠原美桜。ここには私の過去を知る人なんて誰一人いない。
きっと、さっきまでの『悪夢』は緊張のせい。大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせてグランドピアノの椅子に座る。指揮者の関先生が指揮棒を振る__その瞬間、床が大きく揺れた。
「地震!?」
誰かがそう叫んだ。
「みんな_」
先生が何か言う前に、山から流れてきた土砂が教室の窓ガラスを割った。土砂は止まることなく、仲間も楽器も、そして私を飲み込んだ。一瞬の出来事だった。口には生々しい土が入るし、手足の感覚はもうない。
次に気がついたときには、またあの『悪夢』にいた。どこも痛くなかった。
薄っすらと目を開けると、キラリと光る宝石が見えた。透き通るほど青くて、そう_何でも見透かせるようなユイラの瞳に似ている。
ユイラ。ユイラ・ミトス・アーウェン。私の義妹。…元気にしてるかな?あの時、助けてあげられなくて、ごめんね。でも、あれが一番良かったって気づいてくれたかな。ユイラが誰にも傷つけられない場所って。……ごめん。謝ることしかできなくてごめんなさい。本当は一番愛してた。誰よりも愛してた。なのに、忘れちゃってごめんなさい。
「こん、な」
青く光る宝石が手に触れた。体が自然に動いたのだ。
もし、生まれ変われるならユイラのそばに居たいな。誰よりも愛してるよ。これからもずっと。だから、
「こんなお姉ちゃんで、…ごめんね」
許して。_私達のことを。
「最後まで煩いなぁ」
間章が明日でる予定なので良かったら読んでくださいー