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水瀬雫。
これが今の僕に与えられた名前だ。
来月には高校二年生になる十六歳。
学力も体力も財力もごく一般的であり、とりたてて秀でた取り柄はない。
この世界での美醜の基準はまだ掴みきれてはいないが、容姿も特に優れてはいないだろう。
いわゆる平々凡々というやつだ。
この世界の僕は、元の世界の僕とさまざまに異なっている。
前世の記憶、並行世界、異世界転生。
どれを周りに訴えたところでここでは訝しがられるに違いないし、どの言葉がふさわしいのか僕にもわからない。
僕にわかることはただ一つ。
この世界で彼女を探し、彼女に愛を証明する。
そうすればきっと、元の世界に戻り、元の彼女にも会えるはずだ。
なんの根拠もないけれど、なぜだか僕には確信があった。
新しい世界の、地球という星の、日本という国――僕はここに赤子として生まれて以来、たくさんのことを吸収した。
なにせ言葉も違う、文化も違う、歴史も違う。
身体はやけに重く感じ、この身体に慣れるまでにも時間がかかってしまった。
しかし幸いそんな僕の吸収速度はこの世界の人々の成長速度と同一のようで、僕は周りから奇異の目で見られるようなこともなく、すんなりこの世界に馴染むことができた。
もしも生まれた時から言葉を解していたりしたら、異端児扱いは避けられなかっただろう。
戸惑いだらけの日々だったものの、ここはとても住み良いところだ。平和で穏やかで娯楽にあふれ、食事もおいしい。
唯一の不満点であり最大の欠点は、彼女がそばにいないということ。
この世界の彼女は、どこにいるのだろう。
僕がこの世界に生まれついてから、もちろん常に彼女のことが頭にあった。けれども、僕は必死に彼女の姿を探し求めてはいなかった。
僕と彼女はいわゆる運命の赤い糸で結ばれているのだと、間違いなく信じているからだ。
僕と彼女は、きっと運命的に出会うのだ。
ある日の街角で、カフェテリアで、白い浜辺で……あらゆる小説や漫画やドラマのように、きっとその時はやってくる――そう信じて、この世界で十六年という時を過ごしてしまった。
僕の考えは、いささかロマンチシズムが過ぎただろうか? ……いや、そんなことはないはずだ。
きっと今日にも、運命の彼女は僕の前に現れる。
――この時僕はそんなことを考えながら、見慣れぬ道を歩いていた。
現在僕は、春休みの真っ只中。
のんびり休みを満喫できたら良いものの、与えられた課題をこなさねばならぬのが修学の身の宿命だ。
しかしあまりに退屈な参考書に飽き飽きして、僕は突発的に数駅先の街中へと、気分転換に赴いていた。
ほど良い気候に気持ちの良い天気。
気の向くままに歩を進め、気の向くままに街を巡る。本屋に美術館に、大きな公園。この世界の探索は、何年経っても飽きがこない。
僕は時間を見つけては、この世界のあちこちへ出かけていた。観光地と呼ばれる名所も素晴らしいが、こういった何気ない街の一角も良いものだ。この街はどこか落ち着きがあり、雰囲気も心地良い。
だがそのために――僕はあまりに気の向くままに移動していて、気づけばすっかり帰り道を失ってしまっていた。駅から大通り沿いを歩いてきたと思っていたが、いつの間にやらあたりは入り組んだ小道ばかりになっている。
僕はしばしば、この失敗をやらかしてしまう。
しかしまあ、道に迷うというのも悪くはない。まだ陽は高く、昼過ぎだ。小さなパン屋や迷い猫、見知らぬ道には見知らぬ出会いが転がっている。
僕は焦らず変わらずに、再び気ままに歩み続けた。
そうしてしばらく進んだ時ーー細い道を入った陰のあたりから、パシッと何かを叩く音が僕の耳に届いた。
続けて空気を割くような、苛立ちをはらんだ女性の声がする。
「……そういうところが大っ嫌なの! 昔からずっと……ーー本当、虫唾が走るっ……!」
尋常ではない発言である。
しかしそんなガラスの破片ように尖った発言ではあるけれど、なぜだかその声は、ガラスの粒が散るような、透明な輝きをも放っていた。
僕はトラブルに首を突っ込む気はなかったけれど、その声の主が気になって、ふとその細い道を覗き込んだ。
――覗き込んだ先には、腰をついて倒れ込む一人の少女。
赤味のある左の頬を抑えているところからすると、先ほどの音はこの少女が打たれた音だったのだろう。
少女の向かいには、何人かの男女がいる。その中心に位置している少女が、平手打ちの主だと思われる。
僕はこの情景を見た瞬間――時が止まったようにも思えたし、止まっていた時が動き始めたようにも感じた。
やっぱり、僕らは運命の相手に違いない。
こうして運命の出会いを果たせてしまうのだから。
一目見ただけで、君だとわかってしまうのだから。
ああ、久しぶり。
そして同時に、はじめまして。
僕の大好きな、この世界の君。