始まりのキンダーガーデン
それは幼馴染四人が五歳、幼稚園の年中のときであった。
康隆の両親によれば、康隆が家の周りを走っていたカラフルな色のバスに乗って幼稚園に行きたいと言い出したのが、この幼稚園を選ぶきっかけだったらしい。
「忘れもしない」とは言えないが、彼らの中ではかけがえのない記憶である。
彼らの幼稚園は各々の家から遠く、通園はバスであった。彼ら四人が通園の為に乗るバスは同じではあったが、ある出来事以前は接点がなかった。これもあくまでも彼らの幼い頃の記憶であるから、もしかすれば、それ以前にも幼稚園の組が同じであったり、幼稚園での外遊びで一緒になっていたかもしれない。所詮物心ついたばかりの幼子の記憶などはその程度で、遊んだ相手が誰か、どのような顔だったかさえも日が経てば忘れてしまう。たまたま彼らが記憶に定着するほど顔を合わせる機会があり、小学校も同じだったからそれほどの仲になれたのだろう。
いずれにせよ、土井康隆という男の基礎を形作ったのは彼らであるという事実は間違いない。
ある日、次のお遊戯に備えて保育士たちがそれぞれ担当の組の部屋の机を配置を変える為、園児たちを教室の外で待機させていた。
その教室は建物のニ階にL字に隣り合わせになっており、その間にその二つの組の園児たちがスモッグを着て座っていた。
大人しく座っている子、眠たそうにしている子、他の子にちょっかいを出す子と様々いた。彼、康隆は大人しく座っている部類の子だった。彼はそれぞれの組の園児の集まりが重なるところに座り、教室の中を見ていた。
若い女の保育士の先生が机を持ち上げ慌しく動かしている。だが、康隆が見ていたのは、自分の組の教室ではなく、その隣の教室の中だった。彼には未知の隣の教室に興味を持ったのか、たまたまなのか、じっと見ていた。
すると康隆の前に見知らぬ園児が座った。ちょっかいを出してくる子から離れてきて座ったようだ。浅黒い肌にそばかすと大きな白い目のその園児は康隆の方をじっと見つめた。お互いに初めて対峙する相手に無言が流れた。だが、康隆にはどこかで見たことがある気がした。それは通園バスでのことなのだが、当の本人の幼い頭ではそれに気付くことは出来なかった。
大きな白い目。それが自分を覗き込んでくる。幼い康隆にとっては大きな衝撃であった。
程なくして教室の配置換えも終わり、園児たちがそれぞれの教室に入れられ始めると、2人は再び離れ離れになった。そして、それが康隆から白い目の衝撃を忘れさせ、お遊戯という楽しい時間に没頭した。
日も傾き始め、園児たちの帰りの時間が近づくと、彼らは各々スモッグから通園用の制服に着替えて乗るバスごとに異なる教室で待たされた。園児たちを静かに待たせるために、多くの子どもに愛されるヒーローのアニメがテレビで流されていた。複数の話がローテーションされることで、園児の中にはそれを覚える子もいたが、毎度ヒーローの魅力に惹きつけられていた。
康隆もそのローテーションを覚えている子の一人であった。しかし、彼は家でもお気に入りのアニメを何度も繰り返し観て楽しむような子どもだったため飽きてはいなかった。しかも、その日のお話は康隆のお気に入りの回で、ヒーローといつもは敵対する悪役が更なる悪役を倒すために少しだけ協力するというクライマックスのお話だった。
お気に入りの回に夢中だったからか、それとも単に短時間で忘れてしまっていたからなのかは分からないが、大きな白い目の園児もその教室にいるとは気が付かなかった。
そして、いよいよ帰りのバスに乗る時間がやってきた。もう少しでクライマックスというところで終わってしまい、康隆は少し気落ちしていたが、代わりに頭の中ではその後の内容を思い出して付け足していた。
康隆は見送りの園長先生に手を振りながらバスに乗り込み、入ってすぐ左の小さな二人掛けの座席の窓側に座った。通園バスの中は同じタイプの座席が通路を挟んで二列で連なり、窓からは年老いてはいるが元気一杯で声の大きいおばちゃんである園長先生が見えた。まだ次々と乗り込んでくる園児たちに帰りの挨拶を続けている。
そんな園長先生を見ていると、同じ座席の隣に誰かが座った。そちらに振り向くと、大きな白い目があった。
「あっ……」
康隆は思い出し、同じバスだったのかと驚いた。
「さっきの……」
浅黒い肌のそばかす男児もそれに気付いたらしく、少し驚いていた。
そのぎこちない時間も束の間、バスが走り出すと二人は仲良く話出した。幼子の持つコミュニケーション能力は驚くべきものだ。
お互いに小さな肩掛けの鞄の中の物を自慢して見せた。各々が幼稚園に持ってくるように言われている箸セットや小さなコップ、ハンカチの類である。康隆の持ち物は幼い男児が好きな乗り物や先程見ていたヒーローがプリントされたものが多かった。
しかし、そばかす男児の持ち物は一足違った。明るい青や緑の色の多い康隆の持ち物とは反対に、それらは暗い色を主として、キラキラとした銀色の色が所々入ったりしていた。そのモチーフはドラゴンや剣だった。そして、鞄にはゲームのモンスターが描かれたキラキラと光るシールが貼られていた。
働くクルマや新幹線、ヒーローしか知らなかった当時の康隆にとっては衝撃的であった。名前は分からないが、なんとカッコいいのだろう。しかもそれらが光っているのだ。彼の持ち物に非常に興味をそそられていた。
そうこうしている内に、バスはそばかすの男児の家の前着き、彼はバスを降りて行った。康隆の知らない物を持つ彼が降りたのは康隆もよく知る場所だった。周りを田んぼに囲まれた駐車場の広い家だったが、その隣の道を康隆の両親の車に乗って見ていたのである。しかも彼自身の家から歩いてものの数分の場所である。
康隆は母親に連れられて玄関へと向かうそばかすの男児を見続けた。まるで今日あった衝撃を脳裏に焼き付けるかのように。大きな白い目とカッコいい黒いドラゴンを。
それからというもの、康隆は通園のバスが今まで以上に楽しみになった。それまでは単にバスという非日常の乗り物と家から離れた場所の景色を楽しむに過ぎなかった。
毎日、あのそばかすの男児が隣に座ってくれないだろうかとソワソワしていた。康隆自身は気が引けてしまい、自分から彼の隣に座ることは出来なかったが、隣同士になれると非常に嬉しかった。
繰り返す内に、いつ頃かお互いの名前を知ることになる。お互いに自己紹介などした記憶もないが、保育士の先生が呼ぶ名前で覚えたのだろうか。
そばかすの男児の名前は、岩田裕治。「いわっちゃん」と呼ぶ園児もいた。康隆の記憶が正しければ、少なくとも物心ついてから、初めてできた友達である。彼の人生を最も大きく変えた人間の一人でもある。
「ウチに遊びに来る?」
帰りのバスになる前の待機時間に裕治から発せられた言葉は康隆にとって初めての言葉だった。
「うん!」
康隆は大きく頷いた。早く帰って母親に伝えなくては。それで康隆の頭は一杯になった。
バスから降りて自宅の玄関前で母親に迎えられると康隆は直ぐにその話をした。
「ねえ、行ってもいい?」
母親は心配そうな嬉しそうな顔で少し考えると顔を覗き込んで尋ねてきた。
「どこのお家なの?」
「向こうの田んぼの真ん中!」
康隆は通園用の制服から着替えさせられると直ぐに自由帳に地図を描いて説明した。
すぐ近くということもあり、心配はあるものの母親は遊びに行くことを許してくれた。
母親はポテトチップスをビニール袋に入れて持たせてくれ、何度も何度も気を付けるように、粗相のないようにと言いつけた。
「『お邪魔します』ってちゃんと言いなさいよ」
「うん!」
「帰りも気を付けてね」
「うん!」
「門限は?」
「五時!」
康隆は興奮を抑えられず、張り切って家を出て行った。本人は気づかなかったが、母親は通りの角を曲がるまでずっと見守っていた。康隆は過去にも一人で近くの公園までは遊びに行っていた為そこまで心配はしていなかったが、彼女は複雑な感情を抱いていた。
何事もなく康隆は裕治の家に到着した。
世間からすれば、徒歩数分の小さな出来事だが、康隆にとっては偉大なる出来事であった。
田んぼに囲まれた裕治の家の敷地はやはり広い。
康隆は大きな駐車場と庭を歩き、玄関の前に立った。家自体の大きさは彼の家とほとんど変わらないように思われた。
ドアホンを押して少し待つと玄関が開き、裕治が顔を出した。いつも以上に目を大きくして興奮しているようだ。
「上がって!」
「お邪魔します」
促された康隆は初めて他人の家に上がった。父方の祖父母と同居する康隆は母方の祖父母の家に行ったことはあっても、赤の他人の家に上がるのは初めてだったのである。
知らない独特な『匂い』がする。
裕治に連れられて和室に向かう途中、裕治の母が顔をチラリと見せた。軽く挨拶を返したが、なんだか恥ずかしくなってしまった。
そして、和室にはテレビとそれに繋がれた据え置き型のゲーム機とコントローラーが一台ずつ広げられていた。康隆にはそれが何をする機械かはまだ分からなかったが。
裕治はテレビとゲーム機の電源を入れながら説明してくれた。
「これ、めちゃくちゃ面白いんだぜ。兄ちゃんからもらったんだ」
テレビ画面にはゲームのスタート画面が映り、幻想的な音楽が流れている。
カッコいい。康隆はまた、彼の持ち物に衝撃を受けた。
ゲームは一人プレイ専用で、裕治がプレイをし、康隆がコメントをするという遊び方になった。康隆は初めての友達との遊び、初めてのゲームに興奮しっぱなしだった。裕治もこのようなことは初めてのようで、かなり興奮していた。
あっという間に時間は過ぎ、帰宅する時間になってしまった。持ってきたポテトチップスのことはすっかり忘れてしまっており、そのまま裕治にプレゼントした。
帰路もたったの数分しかなかったものの、その間、ずっとあのカッコいいゲームのことが頭に巡っていた。剣と盾を持った主人公が様々なアイテムを使い、モンスターを倒していく。しかも、それはコントローラーを握る者の意思によってだ。今まで彼にとってのテレビの中のものはこちら側の意思とは全く無関係なものというのが当たり前だった。それがたったの一、ニ時間で覆った。何よりもカッコいい。それが最も彼の心を刺激した。
帰宅してから康隆はずっと両親に今日の出来事を話し続けた。初めての友達、初めてのゲーム。両親はとても嬉しそうに聴いてくれた。
そんなことが休日も含め、お互いの家庭の予定が合う時は、何日も続いた。時には康隆がコントローラーを手にして、あのカッコいい主人公を操作させてもらった。攻略に行き詰まればお互いに知恵を出し合った。
幼稚園にいる時でもお互いによく遊ぶようになった。裕治は元々交友関係が康隆よりも広かったらしく、康隆は今までよりも多様な子と遊ぶようになった。康隆の交友関係は裕治によって作れらたのである。そして、遊び方も彼から教わった。
特に遊ぶ機会が多かったのは、帰りのバスの待機教室も同じだった桂諒、加護守の二人だった。しかも、その二人は康隆や裕治の家の近くに住んでおり、幼稚園外でもよく遊ぶようになった。
3人以上が集まるとゲームではなく、鬼ごっこやボール遊びになったが、康隆はどちらも楽しんだ。
桂諒は綺麗に切り揃えられたサラサラの髪と人当たりの良さが特徴で、誰よりも交友関係が広く、幼稚園内ではいつも違う子と遊んでいた。
加護守は自慢を良くする子だった。幼稚園での勉強が良くでき、平仮名やカタカナを早くから読めただけでなく、ピアニカどころかピアノまで弾けた秀才であった。それらを良く人前で披露していた。
幼馴染たちは毎日を楽しく過ごしていたが、時は過ぎ、小学校へと進学する時期が近づいた。
康隆は学校というものを知らなかったため、不安で緊張していた。今遊んでいる子たちや幼稚園との別れに寂しさも感じていた。
だが、幼馴染の三人も同じ小学校であるという事実に勇気づけられていた。他の三人には兄や姉がおり、小学校がどういうものなのかを教えてくれた。授業や宿題、知らない幼稚園や保育園から進学してくる子、そして歩いて通学することなどだ。
毎日いつも通り遊びながらも、日に日に康隆の新しい環境に慣れることができるのかという不安と新しい環境への期待感は増していった。特にランドセルという黒くてカッコいい大きなリュックサックのようなものには期待が大きかった。
友達という存在はあまりも大きく、人格形成、人生すら左右する。そして、不安を和らげるかけがえのない存在でもある。