俺のブルース
仏頂面の男が一人で早朝に車を走らせていた。
年も改った元旦、一人の男は実家から目的地に向かい車を走らせていた。
時刻は六時十分。
康隆は初日の出を見るために近場の海岸へと向かっていた。
康隆は高校時代、部活動で購入したベンチコートを着ている。相変わらず温かい。高校、大学と冬場の苦楽を共にしてきた相棒だ。
車の中にはエンジンとエアコン、そして康隆の吐息の音だけが流れていた。外もまだ寝静まっている。静かだ。
地元の小さな観光地として整備されたビーチの近くには無料の駐車場があった。康隆はそこに車を停め、ビーチの方へ歩いた。
東の空は朝日に色付き始めている。
康隆は近場の自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。いつものケチな康隆ならあり得ない、気の迷いだ。
プルタブを開けると、缶コーヒーの安っぽい香りがした。
康隆は小さく一口だけ飲んだ。温かいものが喉や食道を伝っていくのが良く分かる。
温かい。まるで過去のかけがえの無いない、幸せな思い出たちのように。
ビーチに入るとカップルや夫婦、友人グループらしき人々が何組かいた。皆幸せそうに空を見ながらビーチを歩いている。何かを話す音も聞こえる。
康隆はビーチのベンチに腰掛け、空を眺めた。
真冬の冷たい空気。早朝の静寂。日の出前の空の美しいグラデーション。砂浜の波打つ心地良い音。新年という何とも言えない空気感。
康隆はそれらにリラックスした。元々康隆はこういった自然の美しさが好きだった。改めて、その良さを感じ、それに浸った。
東の地平線では朝日が頭を見せ始めていた。
康隆の頭の中では今までの人生が巡っていた。
「本当の悲しみが知りたいだけ…泥の河に浸かった人生も悪くはない…一度きりで終わるなら…」
康隆は小さく有名な歌を歌った。
人生の失敗と挫折、自身の才能の無さに落胆する日々。もっと辛い人生を送る人もいると言う人もいるかもしれない。主観的に見ればこれ以上辛いことはない。
だが、この全てがなければ、この道を進んでいなければ、今の交友関係はなかったであろう。そう考えると悪くはない。それくらい康隆からすればかけがえのない、素晴らしいものだ。
『今を全力で生きろよ。そうすれば忘れた頃に幸せが訪れるさ。』
カナコの言葉が再び頭を巡る。
そうさ。どうせこれまでも未来を見て、目標に向けてやってきたことなんてなかった。
しかし、過去には囚われてきた気はした。他人と比べてきたことも、過去の感情をひきづり続けたことも。
何人も過去は変えられない。
何人も未来を知ることはできない。
康隆は震える口で小さく笑った。
「今だけを全力で生きるか。上手くいかなくたってな…」
東の空に朝日の全体像が現れた。海面に反射した光が美しい。初日の出だ。
康隆は朝日の眩しさに目を細めた。
結局は、人は人、自分は自分。
未来を見据えるのも重要だが、未来だけを考えていても道は開けない。
歩き続けることが重要だ。
康隆には失うものがない。地位も名誉も夢も恋人も。ならば、挑戦はしたい放題ではないか。
康隆は転職を決意した。教えを請える人がいなくなってしまうのでは、今以上の成長は難しい。今の仕事を失うことは苦でもない。
色々と抱えてしまっている今の感情をリセットする意味でも丁度良いのではないだろうか。
岩田と渡利の顔が脳裏に浮かぶ。彼らのような考え方をしなければ、性格上、自分の首を絞めることになってしまう。
ビーチの人々が初日の出をスマートフォンで撮影している。人々が騒ぎ始め、ビーチの静けさは消え始めていた。
「一丁やってみっかね…」
康隆は自分自身に言い聞かせた。今を生きるために。
康隆はベンチからゆっくりと立ち上がって歩き始めた。片手に掴んだ缶コーヒーは冷めてしまっていた。
康隆のいつもの仏頂面は幾許か緩くなっていた。まだ夢も希望もない。だが、進むことはできる。今の康隆にはそれで十分だ。『今』だけを見て生きるのだ。
太陽は徐々にその高度を上げ、世界を照らす光を強めていた。
「俺は今を歩いていく…だから幸せの方がこっちにやって来い…」