知らぬ間にブロークンハート
「俺、今年度中に辞めるから」
そう真栄田に切り出されたのは年末の最後の営業が終わった後だった。
「人材不足のこの会社だと、土井君が店長に任命されると思うけど、やれそう?」
真栄田はいつものように煙草を吸っていた。
康隆は衝撃のあまり思考が停止してしまった。
まだ何もできないし、結果も出してないのに店長?
しかも、最も知りたい料理の教えを請える人がいなくなる?
「上手くやれるかは分からないですけど、頑張りますよ…」
康隆は嘘をついた。
できるとは全く思っていない。そして、やりたくはなかった。
「土井君の気持ちは大体分かるけど、俺には俺の人生の次のステップがあるからな。見捨てるみたいで申し訳ないけど、ある程度は教えてきたつもりだよ。まだ完璧ではないけど、チャレンジだと思ってさ」
真栄田は新しい煙草を箱から取り出した。
煙草の煙が康隆を襲う。
煙草を吸わない康隆にとっては少し不愉快な臭いだった。
「はい…」
残り三ヶ月で真栄田から離れ、一人で考え、一人で動き、一人で責任を負うことになってしまう。
こんな能力のない人間が?
康隆は恐ろしい程の不安に襲われた。それと同時に逃げ出してしまおうという気持ちにも襲われた。
このままでは何もできないままの人間に店長というキャリアだけができてしまう。それでは駄目だ。どうしようもない。
ならば、腕を磨く為にもこの会社から転職するしかない。
しかし、何の実績もない人間を今と変わらない給料や休日日数で雇ってくれるような店はあるのだろうか。
真栄田の言葉をほとんど適当に受け流しながら康隆の頭の中ではそんなことが駆け巡っていた。
「自信はやっぱりないですよ。何の実績もないですし……。だから、はっきりと言いますけど、任されても店長をやる気、モチベーションはないですからね」
康隆の本音だった。
「そう考える性格だろうとは思ってたけどね……。一応、その気持ちを上には伝えておくけど、どうなるかはわからないよ。人がいないのも事実だから。でも、俺も心配がない訳ではないからね」
真栄田は少し呆れているようだった。
そんなことよりも康隆の頭の中には次の自分の行き先のことしかなかった。
いずれにせよ、全くもって不透明な未来だ。
康隆は大きな不安を抱えたまま帰路に着いた。
康隆は帰宅するといつもの夜食のルーティーンを始めた。
時計は日を跨ぎ、一二月三一日になっていた。
康隆は新鮮な不安で頭が一杯になっていた。
そんな時、スマートフォンに一件の通知があった。
目を疑いたくなる、冗談や嘘だと言って欲しいような内容だった。
康隆は自分を疑いながら、それが間違いであることを祈りながらそのメッセージを確認した。
『この一二月月に結婚しました!』
康隆の祈り虚しく、そのメッセージは間違っていなかった。
優菜からのメッセージだった。
『マジか⁈おめでとう!』
康隆はそう返信を打ち込んだ。精一杯の力を振り絞って。
『ありがとう!』
康隆は自身が想像していたよりも更に大きなショックを受けていた。
もしかしたら初恋だったかもしれない人の結婚報告。これほどまでにショックが大きいとは。思えば、失恋と言われるものは初体験かもしれない。こんなものだったのか。
『結婚かぁ……。俺らもそれくらいの年齢だもんなぁ。いいなぁ。良い人いたら俺にも紹介してくれや(笑)』
康隆は必死に文章を考え、『友達』として文章を打った。自分の気持ちの方が嘘だと錯覚できないかとも思った。
『合いそうな人見つけたら教えるね!』
度々心を馳せていた相手が知らぬ間にそういった段階まで行き、知らぬ間に失恋していたとは。
『頼むわ』
もしかしたら鬱陶しがられていたのかもしれない。そう康隆は考えてしまった。
「最早笑うしかないよな……滑稽過ぎて……」
康隆はそう独り言を零しながら、グループのメッセージを開いた。
こんな面白い、話のネタになる話題を投げない訳にはいかない。
誰かと話をして気を紛らわしたい、という気持ちもあった。
『悲報、俺の初恋の人、結婚』
そのグループはカナコと貴実との三人のグループだった。
康隆が夜食を食べ終わる前に返信は返ってきた。
『ワロタ』
カナコが画面の向こう側で爆笑している顔が目に浮かぶ。カナコはこういった話が好きだ。
『前に話してた例の子?』
貴実もグループメッセージを送ってきた。
康隆はここまでの流れを二人に説明した。自分で文章を打ちながら、滑稽さとショックに頭がおかしくなりそうだった。
『俺のこの気持ちってなんだったんだろうな。まぁ、表にしなかった俺が悪いんだけども。思う存分笑ってくれや』
『確かにな。でもこれで青春の思い出に一区切りついたと思えばいいじゃん』
『でも、本人からの結婚報告はキツイな……』
カナコの言葉が康隆の心に染みる。そう正に『キツイ』。
『そうそう。初恋ばっかりが全部じゃないよ』
貴実はいつも人の悲しみには親身になってくれる。
『失恋ってヤツも初めてだけど、これは当分立ち直れそうにねぇな』
『そうやって人は大人の階段を登るんやで、ヤス』
カナコは絶対に面白がっている。
『それよりも、今を全力で生きろよ。そうすれば忘れた頃に幸せが訪れるさ。今全力のアタシなんか、毎日自分の為に生きてて楽しいぞ!』
カナコの言葉は康隆の心に深く刺さった。
そうだ。今を全力で生きて忘れるしかない。
『恋人なんて、頑張ってれば忘れた頃にできるよ。私もそうだったし』
貴実の言うことにも一理ある。どこかでもそのような話を聞いたことがある。今を頑張っている人に人は惚れる、なんてことも言うらしい。
『今まで頑張ってきて一度も出来たことないヤツの前でそれを言うか笑』
康隆は冗談で返した。何だか少しだけ元気が出てきた。
やはり友人とはかけがえの無いない存在だ。
『今を全力で生きるか。今までのようにな。上手くいかなくたってな』
康隆はそう返信をするとスマートフォンを閉じた。
スマートフォンの通知が鳴る。どちらかが返信をしたのだろう。
それを尻目に康隆はシャワーを浴びに向かった。
冷え固まった身体を温かいシャワーが緩める。
今を全力で生きろよ。そうすれば忘れた頃に幸せが訪れるさ。
その言葉が何度も康隆の頭を巡った。
過去はどう足掻いたって変えられない。未来を考えるだけ不安だ。
たった数時間の間にあまりにも多くの衝撃があり過ぎた。
康隆の脳裏にはあの言葉が焼き付いていた。少しだけ勇気と元気がもらえたような気がした。
しかし、真栄田の退職、優菜の結婚という康隆にとっての一大事に様々な感情が駆け巡っていた。
「面白いね。最高じゃん。逆に楽しくなってきたわ」
康隆はそう口にし、自分に少しでも暗示をかけられないかと、無駄な抵抗をした。
康隆の性格上、今日のことは相当長く心にダメージを与え続けるだろう。