未来へのクリーピング
康隆は全国展開もする飲食チェーンの企業に就職した。
元々学生時代にこのチェーン店でアルバイトとして働いており、その繋がりでこの会社を選んだ。
いくつか飲食業の企業の内定を獲得したが、その中でもその企業を選んだのには、他にも理由はいくつかあるが、大きな理由はそれだけだった。
この会社には全国転勤があった。
複数の業態と店舗を抱えており、ある程度は希望を出すこともできた。
そして、康隆は希望通りの業態に配属になったが、その勤務地は東京、それも池袋だった。
康隆は初の一人暮らし、初の都会暮らしに緊張と期待で胸を躍らせた。
ただ、一番の不安は入社前に行われた泊まり込みの事前研修で出会った同期たちだった。
勿論ほとんどの同期は別の地域、別の店舗での配属になる予定ではあったが、『同期』という括りでその後も関係が続くと思うと少し嫌だった。
その理由は簡単だった。同期の数は百人を超える数であったが、その中には何の能力や実績もないのに大口を叩き、早く店長になりたい、などと言う人間が相当数いたのである。自信と夢だけは無駄にあるタイプの、康隆の嫌いな人間だ。
康隆は飲食業を目指してその会社に就職した。しかし、そういった同期たちの多くはただ出世と金が目的だった。
『食事』や『食べ物』に対する拘りや知識はほとんどなかった。なら何故飲食業を選んだのだ、と康隆は思っていた。
康隆も調理や栄養の専門学校を卒業した訳ではない為、そういった知識や技術はプロに比べれば無いに等しかった。しかし、好きだという気持ち、技術を得たいという気持ちは、彼らとは違って、人一倍あった。
彼らは研修などで集まる度に売上や出世のことを多く口にしていた。康隆はそれよりも自分で作ったもので誰かを幸せにしたいという気持ちの方が圧倒的に大きかった。それは康隆が飲食業を目指した理由の一つでもあった。会社員としては駄目だということも理解はしていたが、それよりも目前の人のことが優先だと思った。
実際、店舗で営業をし、調理に携わると、いくらチェーン店の調理だとは言っても、同期たちと康隆の差は間違いなくあった。
マネージャー陣は康隆のその食に対する拘りと技術を身につけたいという気持ち、そして現に技術を獲得している姿を見て、他の同期たちよりも高く評価していた。調理のオペレーションに関しては業態内でもトップクラスだ、という部長からの評価を得ていた。
ただし、新卒教育を受け持つ部署の人々からは、全くもって店長をやる気がなく、未来に対してネガティブな性格からあまり受けが良くなかった。そんなことは知ったことではなかった。康隆はやれることをやる、勿論経営の勉強もするが、だからといってすぐにでも店長になろうなどとは思わない、そう決めていたのだ。入社半年ほど経つと、シフトの作成や面接、原価管理、人材育成などの所謂店長業務というものをある程度任されるようになったが、康隆には自分のような『ペーペー』なんかに任せてしまって良いのだろうかという疑念があった。
能力もないのに、自信と声と目標だけは大きい人間にはなりたくなかった。
謙虚に着実に能力を高めるのが最善だと康隆は考えていた。
様々な同期がいる中、尊敬できる同期が一人だけいた。
佐野大貴という男である。
彼は飲食業を目指してこの会社に入ったわけではなく、経営を学びたくて入ってきていた。
それだけなら康隆の嫌いなタイプだったが、彼が違ったのはその姿勢だった。
佐野の夢は具体的には未定だが、経営者になることだった。
佐野はその夢に向かっての明確なビジョン、人生設計を持っていた。何歳までには何をし、何歳にはこうなるという予定を詳細に決めていたのだ。
それを達成するためには勉強を惜しまず、驕らずに自分のできないこと、苦手なことは人に頼った。
佐野は経営や心理学の書籍を熱心に読み、その知識は相当なものだったが、本人の言う通り、調理の方はからっきしだった。
佐野と康隆は人員不足だった同じ店舗に配属になっていたが、調理に関しては康隆に頼っていた。その代わり、自分はサービス側で頑張る、と。
未来を正確に見据え、今自分に足りていないものを把握し、それを埋めようと努力する。
そんな佐野に康隆は尊敬と羨望を向けた。
康隆は自分の自信のないネガティブな性格では中々できないが、少しでも真似ようとした。
大きな夢や目標は持てないが、少しずつ目標を持ってスキルを身につけていこう、という気持ちが湧いた。
社会人としての私生活は、最初はあまり褒められたものではなかった。
折角東京という都会に住んでいるのにも関わらず、家に引きこもって自炊とゲーム、読書しかしなかったのである。
初めての一人暮らしにどう過ごせば良いのかが分からなかったし、孤独を紛らわせてくれるのは『別世界』の存在だった。
そんな状況を見かねた上司が康隆に言い放った言葉は大きかった。
「家から出なさい。理由はなんでも良いから。もっと色々なものを見聞きしなさい。食べるのが好きならちょっと遠くの店にでも行ってみなさい。」
その上司は本気で康隆を思ってその言葉を言っていたような感じがあった。
閉じこもって塞ぎ込んでいても何も進歩はない。
それを言われて以降、康隆は積極的に外食をした。テレビで見るような有名レストランやラーメン屋、カフェ、様々な所を回った。
東京という場所は公共交通機関が発達しており、どんな場所でも簡単に行くことができた。
康隆の元来の知らない街を歩くのが好き、という性格にもこれはマッチした。
目的の店だけでなく、その周囲の環境も楽しめた。
次の休みには何をしようか、そう考えることが増えた。これは康隆の孤独を忘れさせるものの一つになった。
社会人一年目ももう少しで終わろうという頃、康隆は日々営業をする中で疑問が湧くようになってきた。
今のままでより高いスキルが身につくのだろうか?
康隆が飲食業を選んだ理由の一つは、何もない自分にスキルを身につけ、自己肯定感に繋げるということだ。
飲食業とは言え、所詮はチェーン店だ。本社の作ったオペレーション通りに作れば、アルバイトでも作ることができる。
もっと専門的な技術が欲しい。
そう康隆は考えるようになっていた。
趣味として、書籍などで調べた料理を作ったりもしていたが、所詮は専門知識を持たない人間の真似事に過ぎない、これで正しいのか?と感じるようになっていた。
おまけに周囲の同業態の同期は調理技術にほとんど興味のない人ばかりだ。そんな中で切磋琢磨ということもあったもんじゃない。
そんな康隆の頭に浮かぶのは一つしかなかった。転職である。
不安はあった。
専門学校を出た訳でも、特殊な技術を持つ訳でも、何かキャリアがある訳でもない。むしろたった一年で会社を辞めてしまう人間だ。そんな人間を雇おうという会社などあるのだろうか。
だが、今踏み留まるよりも、踏み出さなければ自分の目標は達成できないだろうと感じていた。
佐野のように未来を見据えて計画して動かなければならない。
転職を決めてからの行動は早かった。転職サイトに登録し、条件の合いそうな企業を毎日探した。
給料は減っても良い、また地元に住み、初心者からでも学べる場所。
飲食業は世間でブラックだ、ブラックだと言われ、志望者は減っている。そのおかげか書類で応募すればすぐに面接に繋がった。
約二年ぶりの就職活動は思っていたよりもスムーズに進んだ。
康隆は納得のいく会社の内定を貰うとすぐに当時の上司に退職を申し出た。
上司は残念そうな顔をしたが、より高い技術を得ようとする前向きな康隆の背を押してくれた。
康隆は申し訳ない気持ちはあったが、少しだけ嬉しさを感じていた。
未来や目標を見据えて行動する人にはブレもなく、通るべき道もはっきりとしている。
佐野のように夢や目標を追いかけなくてはいけない。
だが、それには必要なものが足らなさ過ぎる。
ならば更に新しい挑戦をするしかない。
安定した今よりも未来の成長を得られそうな場所で生きることの方が重要だろう。
康隆はこのたったの一年足らずで多くのことを学んだ。未来の見方と孤独に戦うことへの対処法が最も大きかった。
康隆は薄々気づき始めていた。一番に求めているのは、他者からの評価だった。
勉強で成功を収められず、運動でも成功を収められず、異性に求められたことも好かれたこともなく、自信もない。
そんな康隆は技術を身につけることによって味わったことのない成功体験を得たかった。