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新たなギャンブル

 大学生活が折り返し、三回生になっても康隆の生活が大きく変わることはなかった。

 大きな出来事としては教育実習があった。三回生の夏の終わり頃から約三週間、教師になりたくもないのに、卒業の為、必修単位のために実習を行った。一応、貴重な人生経験ではある、とは思っていた。

 この頃の康隆は未来に対しての不安と教育実習に対する不満で、以前にも増して赤の他人からは近寄り難い雰囲気が出ていた。

 それでも教育実習では最低限のことをした。中学校での実習だったが、生徒たちの相手を最低限し、退勤前のレポートも無難に終わらせた。同じ中学校で実習となった他学科の学生はいつも遅くまで残って生徒たちの為に何かをしていた。朱書きや日誌のチェック、研究授業の準備に真剣に取り組んでいた。

 康隆は彼を尊敬はしたが、真似る気は一切なかった。単位さえもらえればそれで良いのだから、自分の時間を割く気にはなれなかった。それよりもイライラと怠さを抑えるストレスで精一杯だった。

 康隆は唯一、研究授業だけはそれなりに力を入れて作った。

 専攻科目の研究授業を一から作り、実演するのが教育実習の一番の目玉と言っても良い。

 康隆の場合、それは社会科の授業だった。

 まず康隆が決めたのは、教科書を使わない、教科書に載っていないことを扱うということだった。

 どうせ教科書を使っても平凡なものにしかならないし、生徒たちもいつも通りで退屈だろう。社会科を暗記の科目だと考えている生徒が多いだろう。教師の授業での仕事は、教科書通りに進めることではなく、その分野や範囲に興味を持たせ、生徒をその世界に導くことだ。康隆にはそれらの考えがあった。

 そして、康隆のオタク気質のようなこだわりもあった。

 康隆にとって社会科、特に歴史は事柄や年号を暗記する科目ではなかった。誰かの行動によって誰かが次の行動をする、物事の始まりと終わり、その理由がはっきりとある壮大な『物語』だと考えていた。

 それを少しでも伝え、歴史は暗記科目だという考えを払拭してあげたかった。『暗記するだけのもの』と思ったままでは歴史の世界に入って行くことはできない。

 題材として扱ったのはその時期に通常の授業で扱っていた範囲をより深く掘り下げた内容だった。

 物価の話題も入っており、デフレーションやインフレーションについても触れられるような内容だった。

 康隆が授業を通して伝えたかった真意は、より生徒たちに歴史に興味を持たせられるものなのではないかと考えていた。

 過去のある人物の負の結果を後の人物が回収する。そして、それは過去にいた別の人物を尊敬し、学んでいたからできたことである。何故、その行動を取らなければならなかったのか、そして、後にどのような影響を及ぼしたのか。

 歴史には理由がある。漫画やアニメのように主人公もその他の登場人物もいる。彼らには行動の理由がある。全てに理由がある『物語』である。教科書に載っているようなぶつ切りの単語と年号の羅列ではなく、全てに流れがある。途中で不意の出来事も起こったりもする。漫画やアニメで主人公が旅に出たり、戦ったりするのに理由があり、途中で別のエピソードが入ってくるのと同じだ。

 政治経済の分野で将来習うデフレーション、インフレーションを実はここで皆は先に学んでしまったのだ、ということも伝えた。

 生徒たちの食いつきは良く、面白がってくれた。康隆本人も一応は満足のいく授業にできたし、担当の指導教員からも褒められた。

 やはり全く教師になるつもりはなかったが、少しだけ嬉しさがあった。悔いはほとんどなかった。

 康隆は実習の最終日、生徒たちに残す言葉を決めていた。

「人間は自分の経験したこと、知っていることしか語れない。そして、経験や知識は誰も奪うことのできない唯一の財産だ。だから、経験すること、挑戦すること、知ることに積極的になって欲しい。そして、知識を得ることで認識できるものは増えて、認識できる世界は広がる。」

 これは教育実習に対する康隆の僅かなモチベーションでもあった。そして、本気で無垢な生徒たちに伝えたいことでもあった。康隆は失敗談やそれまで勉強してきた様々な分野の事柄については多くを語れたが、成功談や夢のある話は全くすることができなかった。逆に世の順風満帆に生きてきた人には康隆の見える世界の話はできないだろう。

 どの程度が生徒に伝わったかは分からない。自己満足に過ぎないとも思った。だが、自分に言い聞かせ、再確認するという意味でも口に出したかった。


 大学ではゼミが始まり、政治学のゼミに所属した。しかし、ゼミの専門の講義はそれほど多くはなかった。相変わらず教育関係の、現場で役に立つのだろうかというようなつまらない講義ばかりだった。

 そんなだからやはり部活動が大学生活の中心だった。

 部では中核の学年にはなったものの、チームの選手としては必要とされておらず、やはりネガティヴな感情に苛まれた。

 しかし、ここまでで康隆はさらに気持ちの整理をつけていた。

 趣味としての剣道に意識をシフトし、社会人になってからもある程度続けられるような、勝ちよりも正しさに重きを置いた剣道を目指し始めた。チームの勝ち負け、成長は今まで以上に考えなくなった。というのも勝利、実力主義の長谷部の影響もあった。彼は上の代から主将を受け継いでいたが、実力のない人間は置いて行く、軽視する傾向があった。康隆も軽視され、馬鹿にされる立場だったが、自分は自分の剣道をする、という考えにシフトし、一つの目標を目指すチームの枠からは、心の中では外れた。

 所属するチームの目標や考えから逸脱するのは良くないことだとは理解していたが、そうしなければ自分に利益もなく、精神的負担にもなることも理解していた。

 目標は、次に先生や先輩に会った時により良い動きをする、ということだけだった。

 とは言っても、稽古には熱心に取り組んだ。辛いことも手を抜かなかった。それは自分の為にはなると思っていたからでも、表面上はチームに一丸となっているように見せようと思っていたからでもあった。

 ただ、仲の良い、康隆の気持ちや考え方を良く知るカナコや貴実にはそういった考えは知られてしまっていた。「心がチームから完全に離れてしまっている。」そう言われもした。「その分より良い自分に合った剣道を伸び伸びとできている。」彼女らには良い面も指摘された。

 そうやって『自分の』稽古を続けたことで、後には目標通り知っている人たちには褒められるようにはなった。

 部活動は勝負事としての剣道よりも、自分の趣味としての剣道としての側面が以前よりも俄然大きくなっていた。


 四回生になっても講義に大きな変化はなかった。退屈な講義ばかりだった。変わったことと言えば、卒業論文の指導とゼミが増えたことくらいだった。卒業論文は興味のある政治分野で面白かったし、ゼミも様々な国の政治に関することが学べて楽しかった。それらは全く苦ではなかった。

 

 大学の講義を除けば変わったことは多かった。

 まず一つは就職活動だった。

 三回生の段階で既にどういった職業に就こうかはある程度考えていた。三回生の後半から就職活動に向けての講座も受けていた。

 康隆は過去の辛かった時期に心の隙間を埋める為に、今も日々の剣道の稽古の疲れを癒すために『食べ物』にはかなり助けられていた。

 食べるのも好きだし、料理をするのも好きだった。料理関係の雑誌を購読するくらいだった。

 だから、漠然と飲食関係か食品関係の仕事に就きたいと考えていた。

 しかしながら、当時の康隆は調理師専門学校を卒業していない自分は専門的な店では働けないと考えていた為、飲食関係の企業はチェーン展開している企業ばかりにエントリーした。

 新卒で入社した会社もそうだった。全国にチェーン展開する上場企業だった。この会社にはアルバイトとして働いており、悪い会社ではないという確信もあった。しかも、全国転勤があり、初めての県外、初めての一人での生活も経験できそうだった。だから、その他の全国チェーンの企業を蹴ってその会社を選んだ。

 康隆が就職活動で苦しんだのは大学名と自己アピールだった。

 教育系の大学ということもあって、多くの会社に卒業生はおらず、大学の評価は企業側からすれば不透明だった。また、「何故教員にならないのか?」という質問は毎回された。その度に康隆は自分の辛かった過去の話をした。思い出すのも苦しかったが、それを苦境を乗り越えたというエピソードとして話した。

 自分自身に自信のないネガティブな康隆には自己アピールは苦しいものだった。

 唯一アピールできたのはやはり受験や周囲よりも遅くに始めた剣道の苦難のエピソードだけだった。

 同じ面接を受けた学生たちは、ある大会で入賞しただの、留学してどうしただの、アルバイト先の評価がどうの、といった成功体験ばかりでそれだけで負けた気分になった。

 康隆は改めて自分には何もないと認識した。いかに嘘を付かずに、唯一のアピールポイントだけで戦うかが康隆の悩みだった。

 最終的には片手分くらいの内定は貰え、選べる立場になれたのは、ただ人手不足な飲食業界だったからだろう。


 もう一つ大きく変わったのは部活動だった。

 『自分の』稽古から変わった訳ではない。

 新入生として入ってきた後輩との出会いが部活動での康隆の心に光を与えた。

 その新入生は身長が低く、かなり筋肉質な身体付きだった。彼は男性として大きくはない康隆よりも頭一つ分弱低かった。彼は一瞬、拓郎を彷彿とさせたが、明るく人懐っこい性格と幼い顔付きが異なっていた。

 小柄なその後輩、菅修三は普段はふざけているようで、実は真面目だった。

 修三もその他の後輩たち同様、康隆には良く懐いた。しかし、その早さは異常だった。

 初めて会った次の日にはもうべったりと懐いていたのである。

 修三曰く、「最初っから面白そうな人だと思ったんですよ。で、康隆先輩は真剣に稽古に向き合っているのが分かるし、真面目だけどおふざけには乗ってくれそうな、俺の好きな人だってすぐに分かったんで」

 修三の存在は康隆をより真剣に稽古に向かわせた。康隆よりも修三の方が実力は圧倒的に上だった。だが、修三は康隆に教えを請い、相談もした。康隆は実力はないが、知識はあったというのもあるし、二人が好きなスタイルの剣道が同じだったのもあり、話をしやすかったのだろう。剣道に対する向き合い方も似ていた。修三は勝ちも大事だが、それよりも成長と学びが重要と考えていたのである。

 修三はふざけて康隆のことを「お兄ちゃん」と呼んで甘えることもあったし、子どものように抱きついて甘えてくることもあった。

 康隆は子どもっぽいなと思いつつも嫌な気はせず、修三を可愛がった。元来の『兄』というアイデンティティがあったからだろう。


「やっさん、今日の飲み会楽しみっすね〜。いっぱい飲ませてあげますからね!」

 修三は無邪気な笑顔を彼だけが『やっさん』と呼ぶ康隆に向けた。

 夏の最後の大会が終わり、四回生の引退の飲み会だった。

「馬鹿野郎!下戸にそんなことするんじゃねえ!」

 康隆は笑いながら叱った。

「よーし、ヤスをぶっ壊すぞ〜」

 カナコが修三の話に乗った。

「土井繋がりだから、ワタシの分はヤスの分ね〜」

 貴実もふざける。

「やめてくれよ〜。人の倍以上飯は食えても、人の半分以下しかアルコール飲めないんだからよ」

 康隆は明日の心配をした。部活の飲み会の翌日は必ず二日酔いだからだ。あまり良くないことだが、体育会系の飲み会は熾烈だ。そして、ノリが大切だ。

 飲み会も終盤に差し掛かり、康隆は何杯飲まされたか分からなくなり、目もグルグルとしていた。

 日頃懐いている後輩たちも面白がって康隆に『コール』をかけたり、「飲みましょうよ」と寄ってきた結果だ。

 アルコールが飲めない未成年の頃は先輩たちにしこたまコーラを飲まされたが、コーラならいくらでも飲めたし、口に詰め込まれるご飯もいくらでも処理できた。だが、飲めるようになってからは非常に大変だった。

 そんなことが康隆の回る脳裏によぎった。

 酔いに酔ったせいか、いつもなら自分からあまり行動を起こさない康隆の脳裏にあることが浮かんだ。酔った気の迷いか、本心か。どちらでもあろう。

 康隆はガンガンと痛む頭を押さえ、バクバクと鼓動を打つ心臓に鞭を打っつ、小さなグラス二つとコーラの入ったピッチャーを近くにいた後輩に持って来させた。

 そして、それらを持ってフラフラと立ち上がり別のテーブルに座っていた修三の前に座った。

「ヨォ、キョーダ〜イ、グラスを持てや」

 そう言って康隆は修三にグラスを一つ手渡した。

 目は回り、頭痛はするが、頭はまだ割と明瞭だ。

「やっさん、何するんすか?」

 修三は笑いながらも康隆を心配そうに見ていた。

 康隆は自分と修三のグラスにコーラを注ぎ、自分のグラスを天に掲げた。

 胃から込み上げてくるものを飲み込み、脳を回した。

「我ら二人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは〜」

 康隆は有名な『桃園の誓い』の一説を口にした。修三は康隆と同じく歴史が好きだから、有名なコレはきっと分かるだろうと踏んでいた。

「心を同じくして助け合い、稽古をせん!」

 修三は康隆の思った通りに乗り、グラスを天に掲げて元気よく康隆に続いた。

 そして、二人は腕を互いに交差してグラスを飲み干した。

「な〜にやってんの〜」

 顔の赤くなったカナコと貴実が肩を組んで二人に近づいてきた。

「桃園の誓い、義兄弟の契りっすよ」

 修三は笑いながら言った。

「でも、アタシはもう苗字一緒で結婚してるからね〜」

 貴実は酔った口で冗談を飛ばした。「良いな〜」とカナコが茶々を入れる。

「あ、ねぇさん!」

 修三がまた冗談に乗る。

「馬鹿言うんじゃねぇよ!ダチだよ、ダチ!せめて兄妹だ!」

 康隆はいつもの『ツッコミ』をした。

 貴実は自分の言ったことを振り返ったのか、より顔が赤くなり、少し静かになった。

 康隆は痛む頭で幸せを感じていた。


 康隆は引退してからも精力的に稽古に参加した。卒業論文で好きなことを扱っていて、学生の間で良く言われるような辛さもなく、それ以外に特にする予定もなかった為、剣道が趣味だった為、後輩たちが好きだった為だ。

 そして、卒業式間際の卒業生対在校生の伝統的な壮行試合と社会人になってからに備えて稽古をした。

 何者にも予定にも縛られない自由な時間だった。

 好きな時に稽古をして、好きな時に論文や書籍を読んで、好きな時にアルバイトをする。最高に自由で自分を成長させられる時間だった。

 その中でも最も自由な時間は卒業論文の発表会が終わった後だった。

 康隆はその時間を利用して単身、イタリアに旅行に出かけた。ツアーではなく、五つの都市間の移動手段と宿泊場所だけを旅行代理店に頼んだだけの自由な旅行だった。

 一人で動くことは寧ろ好きなくらいで、この旅行には何の躊躇もなかった。経験として海外に一人で行きたかったのだ。他人に自慢できる話作りという思いも多少はあったが。

 何故イタリアだったのか、というと簡単なことで、単純に康隆がイタリア料理が好きだったからだ。

 康隆にとって、旅行をする上で、というよりも生活する上で最も気にするのが美味しいものを食べられるかだった。それだけ食いしん坊だったのだ。

 おまけに、イタリアは元々別々の国々が集まってできた国で州ごとに異なった食文化を持つのだ。であれば、都市を移動するだけで異なった趣の料理が食べられる。実地での勉強とも思えた。

 康隆はイタリア語はほとんど勉強せずに渡航したが、それまで勉強していた英語が日常会話程度は喋ることができた為、ツアーコンダクターのいない旅行でもほとんど不自由がなかった。寧ろいない分自由だった。景色も料理も交通手段も目的地も自由に選べた。

 英語が少し話せたおかげで現地の人や相席になった旅行者と軽い会話を楽しめた。

 他の学生に言わせればあり得ない、だが、康隆にとってはかけがえの無い、独りぼっちの卒業旅行となった。

 

 壮行試合では、部の監督は勿論、OBやOGも多数が観戦に集まった。

 康隆は自らを奮い立たせた。世話になった先生や先輩たちに自分のこれまでの成果を見せよう。後輩たちに最後まで実力のない人間でも頑張った成果を見せよう。そういった気持ちが強かった。そして、学生としての最後の試合、それもエキシビジョンだ、楽しもう。そういう気持ちもあった。

 試合相手は修三だった。

 在校生の中でも指折りの実力を持ち、康隆との差は明らかだ。だが、康隆と修三の関係性を考えて後輩たちが作った組み合わせだ。

 相手にとって不足無し。寧ろ十二分過ぎる。

 康隆にしては珍しく熱く、自信のある気持ちだった。

 防具の面を付け、自分の番を待つ間、緊張に支配された。それを和らげるため、試合前のルーティンである手足の伸びをした。

 前の試合、貴実と後輩の試合が終わり、自分たちの番が回ってきた。康隆は小さく息を吐いた。

 礼をし、試合場の白線内を摺り足で進む。

 互いに向き合い、竹刀を抜き、蹲踞をした。

 始まる。

「ハジメッ!」

 主審の合図と共に康隆と修三は立ち上がり、発声し、互いの間合いまで寄った。

 周囲の状況は分からない。ただ前の修三の出方、自分の脚の動きに全神経を集中させた。所謂ゾーンという状態か。

 脚を止めたらやられる。どう攻める?

 康隆がそう集中している中でも修三はぐんぐん攻め入ってくる。

 康隆も攻め返し、技を何度も繰り出すが、全て防がれてしまう。

 康隆は修三の面に向かって飛び込んだ。

 しかし、修三は康隆の小手を的確に捉えて、竹刀を振るった。

「コテアリッ!」

 三人の審判の審判旗が上がり、修三の技が一本となったことを主審が宣言した。

 いつもやられてしまう場面だ。もう後がない。

 二人は開始線に戻り竹刀を構え直した。

「ニホンメッ!」

 再び自分に気合を入れる意味も込めて、思いっきり発声をした。

 今日の修三は執拗に面を狙っている。

 狙うならここしかない。

 康隆は左手の小指と薬指に力を込めて、片手突きを放った。竹刀は修三の左側に逸れた。

 しかし、これは決める為の技ではない。康隆はすぐに身体を前に出し、鍔迫り合いに持ち込む。一旦お互いの間合いを仕切り直すのが目的だった。

 康隆と修三はお互いに竹刀を交えて牽制し合いながら、息を合わせて鍔迫り合いを解く。

 ここからだ。狙えるのは一度きり。

 康隆は修三の竹刀を右から軽く押さえた。

 修三が康隆の面に向かって飛び込んできた。

 待っていた。最高の位置とタイミングだ。

 康隆は左手の力を少し抜き、竹刀を横に薙いだ。そのまま勢い良く摺り足で抜ける。

 その場にいた人々は沸いた。

 手応えは確かにあった。

「ドウアリッ!」

 やった。得意技が決まった。だが、まだ終わりではない。もう一本。しかし、疲れはかなり溜まってきているな。

 再び開始線に戻り竹刀を構え直す。心臓はここまで以上に速く鼓動を打っている。

「ショウブッ!」

 明らかに修三の雰囲気が変わった。覇気と焦りを感じる。

 体感だが、試合時間の終了も迫っているはずだ。引き分けを狙うのも手だが、それでは駄目だ。

 修三は先程までよりも激しく攻め入ってきた。この焦りにつけ込むしかない。

 康隆も最後の気合を込めて『ギア』を上げた。修三をそれだけで吹き飛ばしでもするつもりで発声をした。

 お互いに打ち合いが続いたが、それは長くは続かなかった。

 康隆はいつもの悪い癖が出てしまった。疲れからか脚の動きが止まってしまった。

 まずい。止めてしまった。

 そう康隆が思った次の瞬間には修三が康隆の面に飛び込んで来ていた。

「メンアリッ!」

 康隆は大きく首を縦に振り、自らの敗北と修三の技の見事さへの納得を示した。

 開始線に戻り、竹刀を納め、礼をした。

 会場の人々からは大きな拍手が送られた。今まで特段結果を出してこなかった人間の最後の一花に対してだ。

 康隆は息を整えながら、修三の元に寄った。

 お互いに軽く抱擁を交わした。

「クソッ!やっぱりダメだったぜ」

 康隆は息を切らしながら言った。

「でも、最高でしたね。危なかった。やられました。」

「あぁ、最後の、最後に決めてやったぞ」

 康隆は負けはしたが、非常に満足していた。

 最後に一花咲かせられた。ここに向けて稽古をしてきた成果を最後の舞台で出せた。

 会場にいた人々には褒められた。綺麗な技だった、と。よく頑張った、と。

 ある先輩は言った。

「今日の試合は康隆の一撃がハイライトだったな!」


 卒業式を数日後に控えたある日、康隆は諒と飲みに行く約束をしていた。

 成人式前のように優菜も誘って三人で行こうという話になった。

 康隆は乗り気だった。就職すれば、東京に引っ越すことが決まっていた為、地元の仲の良い人たちには別れの挨拶をしておきたいとも思っていた。

 だが、思わぬハプニングが起きた。

 諒が教員の先輩から急遽呼ばれてしまい、参加することができなくなってしまったのである。

 康隆は迷った。優菜と二人きりで話を続けられるのか?嬉しくないと言えば嘘にはなる。

 結果的には康隆は勇気を振り絞り、二人で飲みに行くことにした。

 所謂居酒屋デート、サシ飲みというヤツだろうか。ある意味賭けだ。

 康隆は楽しさよりも緊張の方が大きく、何を話したかほとんど覚えていなかった。

 取り止めもない話ばかりだったのは確かだ。最近どうだの、前はこうだっただの、これからどうするだの。

 康隆の心の隅にあった気持ちは最後まで出すことができなかった。それは優菜に対する好意だった。

 その好意は錯覚、思い込みだったかもしれない。そう考えてもいたが、現に心の隅にはあった。

 今更言うけど、実は昔好きだったんだよね。今付き合っている人はいるの?

 そう言葉にするだけのはずだったが、康隆にはそのような勇気はなかった。

 今までそのようなことを口にしたこともないし、それを優菜にどう思われるかがも心配だった。

 酔えばそれを理由に、勢い余って口にできるかもしれないと考えていつもよりもアルコールを多く飲んだ。

 しかし、何故かいつも程は酔わず、むしろ格好をつけたいという気持ちになってしまった。今日は調子が良いから飲めるな、と言った。

 結局は悔いの残る会になってしまった。

 情けないチキン野郎め。

 康隆は心の中で自らを罵った。そして、優菜に対する感情をより心の奥に仕舞い込んでしまおうと考えた。薄れさせる、忘れる為に。

「全部払うよ」

 康隆は会計の際に優菜にそう言ってお札を店員に渡した。

「申し訳ないよ。これから一人暮らしするんでしょ?」

 優菜は申し訳無さそうな顔をしている。アルコールが入り、少し顔が赤みがかっている。肩までのショートヘアーが昔の記憶と仕舞い込もうとした感情を蘇らせる。

 康隆は優菜に対する好意が再び湧いてきたが、それを押し殺した。

「最後くらい、何もない男にカッコつけさせろよ。それに金くらいは持ってるからさ。後輩に使うくらいしか使い道なかったし」

 康隆は顔を逸らして言った。

 康隆が最後に優菜に出せる『気持ち』だった。

 一応夜道だから、と康隆は優菜を家まで送り届けた。

 店を出てからも会話を続けたが、康隆はほとんど優菜の顔を見ることはできなかった。康隆は見栄を張り続けた。

 彼女には康隆はどう見えたのだろうか。今までどう見えてきたのだろうか。

 別れの挨拶を交わし、一人になった後、康隆は静かに、ゆっくりと帰路を歩いた。今日のことを良くも悪くも噛み締めながら。


 卒業式の日、最後に見送ってくれた後輩たちや共に卒業する仲の良かった同期たちに向かって康隆は言った。同期、後輩の関係を超えてそれを言った。

「あばよ、ダチ公」

 康隆の好きなアニメでの台詞の一つだ。アニメで兄貴分が死の間際に弟分に全てを託して放った台詞だった。

 康隆はこの一言に色々な気持ちを込めて口にした。

 我ながら少しクサいとは思ったが、後悔はなかった。

 康隆は少し涙が出そうだった。それだけ皆との別れが惜しかった。

 だが、次に進まなければならないのもまた事実だ。


 康隆は大学生活を通して、自分の周りにいる自分を好いてくれる人こそが、それが例え少なくても、最も大切な存在だと強く思った。この繋がりをどういう形であれ、残したかった。

 そして、勇気を振り絞って挑戦することの重要さを痛感した。経験したことしか、本心で語れはしない。だが、その挑戦には地道に真摯に取り組んだ準備が必要だ。今まで様々なことに興味を持ってきてそれを知ってきたことも、不利な条件で就活に挑み、修正を重ねたことも、剣道で稽古を重ねたことも、全てだ。

 康隆は地元を離れ、飲食業として生きるという、人生を賭けた新しいギャンブルに手を出そうとしていた。

 最大の懸念は康隆自身の心の弱さだった。

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