第十六話『危険地帯での安息』
酷い気だるさを感じ、シゴロウは薄っすらと目を覚ました。真上に見えるのは仮眠室の天井で、顔を横に向けると近くには狼男との戦闘で別れた桜花がいた。
桜花は洗面台で濡らしたタオルを持ち、ベッドの上で横になっているシゴロウへと近づいてきた。
(無事……だったのだな)
未だ頭痛は収まらず、疲労のせいか声はかすれていた。無意識に手を伸ばすと桜花はシゴロウが起きたことに気づき、口元に人差し指を押し当てて静寂を促した。
「……しー、です。シゴロウさん、もう少しだけ待ってて下さい」
「?」
どういうことかと疑問を浮かべると、通路の方からドシンドシンと足音が響いてきた。音の重量感で狼男と気づき、シゴロウも警戒して声を潜める。
仮眠室にはカーテンが引かれ、シゴロウたちは通路から見えない状態だ。身構えていると狼男の気配は段々近づき、仮眠室の近くで一旦足音が途切れた。
フンフンという大きな鼻音が聞こえ、狼男は再び歩き出した。そして仮眠室にいるシゴロウたちに気づくことなく、外周を回る通路を歩いていった。
音が小さくなっていき、シゴロウと桜花は安堵のため息をついた。
「……よく見つからなかったものだな。さすがに肝が冷えたぞ」
「部屋にあったゾンビ用のスプレーを使って、ここに隠れていることがバレないようにしたんです。どれぐらい使えばいいのか分からなかったから、全部使っちゃいましたが」
そう言う桜花の足元には、空のスプレー缶が三つほど転がっていた。
「なるほど、それは英断だな」
「……スプレーのガスのせいか分からないんですけど、部屋の中がだいぶ匂っちゃってるんですよね。見つかってないからいいですけど、消臭効果も薄まりますし少なくすれば良かったです」
「消臭……? あぁ、あのスプレーにそんな効果はないぞ」
「え?」
疑問を浮かべる桜花に、シゴロウは寝そべったままスプレーの詳細を教えた。中に入っているのはゾンビ独特の体臭を分析したもので、スプレーを吹き付けた人物を疑似的にゾンビと誤認させるものだ。
「……まぁ、姿を見られてしまえば簡単にバレるから、今のように部屋の中で隠れるか離れた距離を歩くなどの対策は必要だが……どうした?」
桜花は自分の服や髪を鼻に近づけ、スンスンと入念に匂いをかいでいた。
「いえ、もしかしたら今の私ってかなり臭いんじゃないかと思いまして」
「安心しろ。もしかしたらではなく、今の桜花は実際に臭いはずだ」
「ひっ酷い! シゴロウさんは女の子を何だと思ってるんですか!」
「ふっ、それで見つからなかったのだから良いではないか。スプレーを控えめに使っていたら、今頃俺たちは皆揃ってあの怪物の腹の中だ」
そんな会話をしている内にシゴロウの体調も良くなり、桜花の緊張もほぐれてきた。シゴロウは頃合いだと身体を起こし、改めて状況確認をすることにした。
「……俺が倒れてから、どれぐらい時間が経った?」
「たぶん三十分ぐらいですかね? あの化物は大体十五分置きぐらいに部屋の前を通過してます。間違いなく、こっちを探してるみたいです」
「……だろうな。邪魔者を排除するまで向こうも八階層に上がる気はないと見た」
スプレーの効果が途切れる前に、狼男とはこの階層で決着をつける必要があった。
狼男は強靭な肉体と犬並みに優れた嗅覚を持っている。だが人間と動物の無理な複合実験の結果か、視力と聴力はさほど優れていない。
スプレーなどの対応策があれば、今のようにやり過ごすのは簡単な個体だ。だがそれはあくまで狼男に認識されていない時の話で、一度標的になってしまえば殺すまで獲物を追い続ける執念深さがある。
「107は……どこにいる?」
桜花に質問すると、シゴロウのすぐ後ろを指差した。そこには壁に背を預けて座り、左腕に添え木を付けた107がいた。その表情は苦しそうで息も荒れている。
シゴロウと目が合うと107は微笑むが、すぐに目を閉じて顔を俯かせてしまった。
「大丈夫か、107?」
「がぅぅ……」
「待ってろ、今そっちに行く」
今まで見たことがない衰弱具合で、シゴロウは不安な思いのままベッドから降りた。
「体温は……普段から低いがさらに下がっているな。左腕以外に痛む場所はあるか?」
「あぅ……、あうおぅ……」
「腹が痛むのか? 外傷はなさそうに見えるが……」
あれだけ警戒していた桜花の治療を受け入れるほど今の107は弱々しかった。
このまま何もしなければ死んでしまうのではないか。そんな不安な思いで診察を続けていると、ふいに107の腹からグーと大きな空腹音が鳴り響いた。
「……もしかして、腹が減って動けないだけか?」
「がう、うぅ……」
107は腹を抑え、コテンと床に倒れ込んだ。ひとまず命に関わる状態ではないと安堵するが、現状のように107が動けない状況は致命的だった。
桜花も今の腹音で107の状態を察し、部屋に置いてあった携帯食料類を持ってきてくれた。だが107はそれらに興味を示さず、再び腹を抑えてぐったりと目を閉じた。
「あの、シゴロウさん。107ちゃんって何を食べるんですか?」
「ゾンビ全般的に、食料は人間の血とか肉だ。基本は食べなくても活動するから、何のために食っているのか不明なのだがな」
必要なのは『人間の血または肉』であり、それ以外には見向きもしない。成分的に大した違いがなくても、ゾンビたちは動物から取れたものには一切興味を示さない。
何故そのような食の好みがあるのか研究が行われたが、明確な答えは誰も出せなかった。ゾンビ因子でゾンビ化するのは人間だけではないので、仲間を増やすのに適していないからという理由も違う。
これまでの観察でも、107が食事を摂ったことは一度もなかった。
(一応、前に107に噛みつかれた職員はいたが……)
急に予想外の事態になったので、シゴロウも何をしてやればいいか分からなかった。困った思いでいると、ふいに桜花が何かひらめいたように問いかけてきた。
「人間の血とか肉……。だったらそれを与えれば、107ちゃんが動けるようになるかもしれないんですよね?」
「あぁ、恐らくはな。だがそんな物は近くにないぞ?」
シゴロウがそう返すと、桜花は決意をしたような表情で立ち上がった。そしてシゴロウの傍に寄り、手を差し伸べて意外な発言をしてきた。
「……シゴロウさんが持っているそのナイフ、私に貸してください」
「構わんが、何に使うつもりだ?」
意味は分からなかったが、シゴロウはとりあえず軍用ナイフを桜花に渡した。桜花は鋭い切っ先を見つめてゴクリと喉を鳴らし、服の袖をまくって刃を自分の腕に近づけた。
「――きっと、私にはこれぐらいしかできませんから」
待てと、シゴロウは止めようとした。だが声を発するより早く、桜花は手首より少し下の部分に刃を押し当て、スッとナイフを薄く引いた。




