第九話『十階層探索』
冷凍処分室から出たシゴロウは、107と共に九階層に上がる唯一の階段を目指した。
研究所全体が警戒態勢に入っており、十階層側には分厚い隔壁が下りていた。その間には死体が挟まり微かな隙間ができていたが、小柄な107でも通れそうにないほど狭い。
下手に手で持ち上げようとすれば、隔壁に指が挟まれて千切れる危険性があった。
(奥まで血を引きずった跡がある……。となれば少し前まで人が通れる隙間があったのか。隔壁の重さで死体が潰れ、今のような状態になったのだろうな)
十階層にいたゾンビはほぼすべて九階層へと登ったようだ。シゴロウは伏せた状態から立ち上がり、頬についた赤黒い血を白衣の袖で拭った。
「ふむ、少々原始的な方法だが、アレを試すか」
「………ががぅ?」
「ほう、気になるのか? では簡単に説明してやろう」
可愛らしく首を傾げる107の前で膝をつき、シゴロウはしっかりと目線を合わせた。そして胸ポケットからボールペンを取り出し、シゴロウは壁に図形を三つほど描いて『てこの原理』について教えた。
「……このように支点・力点・作用点の仕組みにより、てこの原理は成り立っている。例えば作用点から支点までの距離を半分にし、支点から力点までの距離をその分伸ばせば、物を持ち上げるのに必要な力の効率化が可能というわけだ」
「?? ……がー、がうぅ……?」
「例えば……そうだな。あそこの鉢植えで試すとしようか」
鉢植えの隙間に拾った定規を差し、支点には手持ちの携帯端末を使った。力を出し過ぎないように107に注意し、力点と支点の距離を色々試させてあげた。
支点から力点の距離が離れると、鉢植えは簡単に持ち上がる。107はその現象を何度も反復していき、納得がいった瞬間にパッと明るい顔でシゴロウを見上げた。
「っ! シゴロ、シゴロ!」
「うむ、何となく分かったようだな。それがてこの原理だ」
107はしっかりと自分で考え、シゴロウが言った説明を理解し喜んでいた。そしてそれを見た瞬間、シゴロウの中にある父性が強く刺激された。
(――素晴らしい。やはり107の知性は本物だ。今はまだ俺の名しか口にできないが、いずれは正確に言葉を喋れるように教えなければ)
自然とシゴロウの手は107の頭へと伸び、細い髪をわしゃわしゃと撫でていた。107は気持ちよさそうに目を細め、シゴロウにもっと撫でるようにせがんできた。
この日この瞬間、シゴロウは親バカという重病を発症したのだった。
それから利用できそうな物を探し、シゴロウは十階層の探索を始めた。
しかし警戒態勢ということもあり、ほとんどの扉はロックが掛かって開かない。人が中にいなければゾンビが扉を打ち破ることもなく、必然的に入れる部屋は限定されてしまう。
現時点で入れる場所は、冷凍処分室とトイレぐらいなものだった。
「うーむ、どうしたものか」
幸いにも稼働していた無料のドリンク自販機から栄養ドリンクを取り出し、それを飲みながらシゴロウは考えた。
支点となるコンテナは冷凍処分室から回収し、使えそうな棒も一応見つけた。さらに持ち上げた隙間に差し込む紙類も十分に集めた。だが試すまでもなく、今ある物では隔壁が開かないのは明白だった。
「モップ一本だけでは、さすがに耐久性が足りん。隔壁の重さを大雑把に計算しても、最低三本はないとどうにもならんな」
シゴロウはもう一度記憶を思い返し、何か使える物はないか探した。だが地下十階層には書類や実験道具類があるだけで、上手く利用できそうな物は見つけられなかった。
「……念のため、管理AIに扉を開けられないか頼んでみるか」
シゴロウは手持ちのIDカードを端末にかざしてみた。だが警戒態勢のせいで反応はなく、シゴロウは「やはりな」と諦めのため息をついた。
「107、もう一度他の部屋を……っ!?」
ドリンクの紙容器を捨てて隔壁まで戻ると、シゴロウはそこで信じられないものを見た。107はシゴロウの手を借りず、さっき習得したてこの原理で隔壁をこじ開けようと頑張っていたのだ。
「シゴロ! シゴロ!」
どうだ凄いだろうと言うように、107は誇らしげな顔をしていた。モップは107の力で今にも壊れそうにしなっていたが、シゴロウはすぐに止めはしなかった。
(…………なんと、なんと素晴らしい。叶うのなら、107が作り出したものすべてを永久に保存したいほどだ。いや絶対にするべきだ)
感涙の涙をこらえつつ、シゴロウはミシミシと音を立てるモップを回収した。
「さすが107だが、それではモップを壊してしまうだけだぞ」
「がう?」
「もう一度部屋を見て回り、何とか代用品を見つけるべきだ。幸いにしてゾンビはいないから、ゆっくり探す時間は……む?」
突然十階層の奥から、ドンという重低音が響き渡る。それは時間が経つほどに大きく連続で響いてきた。
「これは、禁域の方角からか……?」
嫌な予感がしたシゴロウは、107を抱きかかえてその場から離れた。逃げ込んだのはモップを回収したトイレで、身を潜めつつ状況確認のために顔を覗かせた。
それからも音が止むことはなく、ついには禁域の扉が破壊された。続いて聞こえてきたのはズシンズシンという歩行音で、隔壁の前へと異様な巨体が近づいていった。
(あれは……)
禁域に何度も出向いているシゴロウは、その存在に見覚えがあった。巨体の正体は管理番号103と呼ばれている改造ゾンビだ。
百番台の103は107と同じ『デンジャー』で、担当者からは『狼男』という名称で呼ばれている。ゾンビ因子による人と動物の複合実験の産物で、頭は狼となっており身体は異常に巨大化した人間のものだ。
一部を除き全身には灰色の剛毛が生えており、低威力の弾丸や刃物の類では大したダメージにならない。加えて体毛は寒冷適応の役目もあり、人では生活が難しい極寒の地でも活動できる個体だ。
全長は二メートルを超え、獣がごとき前景姿勢で歩いている。見た目通り嗅覚は他のゾンビの比ではなく、体重を支える筋肉で体格もでかい。凶暴性と内包する膂力は、『デンジャー』随一と言ってもいいほどだ。
あまりにも危険なので、禁域の中で厳重に封印されていたはずだ。
「……一体、この研究所で何が起きている?」




