ルーン魔術師とクラーラ・ラズバード・3
日中、アリシアと建国祭を楽しんだからか、俺は心地のいい疲労感に襲われていた。自然と眠れそうな、そんな夜だった。
窓の外からは月光が差し込んでいた。
さてと。明日に備えて今日はもう寝るか。
俺が部屋を照らしているランプを消そうとしたとき。
――コンコン。
ノックの音。
誰だろう、アリシアかな?
「どうぞ」と俺はいう。
入ってきたのは、意外な人物だった。
「こんばんわ、ヴァン。今、いいかしら?」
アリシアと同じ桃色の髪を短くまとめた少女。彼女は、薄い衣服を纏っていた。彼女の魅力の一つである、スタイルの良さを前面に押し出したかのような、いわば煽情的な格好だ。その格好には、嫌でもドキリとしてしまう、蠱惑な女性の魅力があった。
俺は、一切合切の感情を、出来るだけ心の奥深いところに押し込めるように努めていた。
「どうされたんですか、クラーラ様」
口紅だろうか。
彼女の唇が、ランプの光に艶やかに輝いた。
「話があるの」
それがただならぬ話であることは容易に想像がついた。
クラーラ様が扉を閉めて、部屋に入ってくる。
「そちらにどうぞ」
と、俺は自分が座っている向かいのソファを進める。
防衛本能だったかもしれない。だけど、クラーラ様はいともたやすく、その防衛本能を突き抜けてくる。
彼女はゆっくりとした足取りで、俺の言うことなんて聞かずに、俺の隣へと腰を下ろす。そこには、何か固い意志のような物を感じた。俺はそれ以上何も言えず、仕方なくクラーラ様があられもない姿で隣に座っている現実を受け止める。
「あの、どんな御用ですか?」
主導権を握られるわけにはいかなかった。俺は自分から切り出す。
「アリシアとの勝負、わたしが勝ったわ。不本意な勝利だけどね」
まだ最終日が残っているが、アリシアが追い越すことなんて出来ないとクラーラ様も知っているのだろう。
「……。そうですね」
「約束を、忘れたわけじゃないでしょう? あなたは、わたしの婚約者になる」
「覚えています」と俺は言う。
「ねえ、お願いがあるの」
ひどく弱々しい声だった。
クラーラ様がこんな口調で話すのか。
「なんでしょう」と出来るだけ動揺を隠して言う。
「わたしを、わたしを自由にさせてっ」
顔をあげて、俺と向き合ったクラーラ様の瞳には涙が浮かんでいた。
俺は彼女の言葉をかみ砕くことに必死だった。
自由に?
一体、どういう意味だ?
訳も分からずいると、クラーラ様が続ける。
「……怖いの」
「怖い?」
俺の目を見つめ続けたままクラーラ様は言う。この人の口から、そんな言葉が出るとは思いもしなかった。いつも自信を身にまとっているような人だ。何かを怖がるなんて、彼女には全く似合わなかった。
「この国は、実力のある者がのし上がる。だけど、実力が無い者は、冷ややかな目で見られるわ。あなたも何回か見たでしょう? アリシアが冷たい目で見られているのを」
俺は会議の時の貴族たちを思い出す。確かに、アリシアはあの時、決していい目では見られていなかった。
「でも、クラーラ様には実力があるじゃないですか」
「そうね。でも、もし誰かに抜かれたら? わたしが努力を怠って、わたしの力が、普通の人と同じようになったら? 周囲はそれでも、わたしと普通に接してくれる? いいえ、そんなことは無いわ。わたしも冷たい目で見られていくの」
クラーラ様のいう通りなのかもしれない、と思った。俺は何も言えなかった。
「それに、わたしの子供は?」
「え?」
「いつか生まれる、わたしの子供が、アリシアのように魔力を持たなかったら? きっと、前までのアリシアと同じように、白い目で見られるわ」
「でも、アリシアは、それでも――」
「そうね。頑張っていたわ。でも、誰もがあの子みたいに強く生きれると、本当に思う?」
はい、とは口が裂けても言えなかった。改めて、アリシアの心の強さを俺は感じた。確かに、誰からも冷たく見られているというのに、国のために努力しようだなんて、誰でもできるわけが無い。
「ねえ、いつまで努力を続ければいいの? 努力を怠ってはいけないという恐怖からいつわたしは解放されるの? わたしはどうすれば、自由になれるの?」
クラーラ様は、誰にも言わず、ずっとそんな恐怖と戦っていたのか。
俺はクラーラ様の顔をじっと見つめた。
そこには、いつもの不敵で、何事も恐れぬ自信の塊のような笑みは無かった。
今にも泣き出して崩れてしまいそうな、一人の少女の顔がある。俺の目を見つめる彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。それが全てを物語っているような気がした。
俺は、何も声をかけられなかった。何を言えば、彼女の涙が乾くのか。俺には、きっと一生かかってもわからない。そんな無力感だけが、胸中を席巻する。言いようのない澱みが、喉につかえていた。
「ねえ、だから。……だから、わたしを守って。わたしが安心して、自由に活きられるようにしてよっ! ねえ、困っている人を助けるのがルーン魔術師なんでしょう?」
「そう、です。でも……」
俺は彼女を助けるとは言えなかった。あいまいな返事を返すので精一杯だ。
クラーラ様はソファに空いた俺との距離を埋めるように、さらに近づいてくる。小さな希望に縋るよう目で、俺を見ていた。
彼女の小さな手が俺の胸元をなぞって上ってくる。そのまま、細い腕が首に回る。彼女の震える吐息が、首筋を撫でた。くすぐったくて、熱っぽくて、弱弱しいけど大事な物を全部吹き飛ばしていきそうな、そんな吐息だった。
気付けば、俺の両腕は、彼女の細い体を抱きしめようとしていた。崩れそうな身体を、支えて受け止めようとしていた。
でも、その瞬間、アリシアの顔が浮かぶ。
ダメだ。ここで彼女を抱きしめたら、ダメだ。
そうしたら、今後クラーラ様は一生一人で立てなくなるような、そんな予感がする。俺が手を離した瞬間に、風に吹かれただけで崩れてしまいそうな存在になってしまいそうな気がしたんだ。
そうなってしまえば、俺はもうアリシアの師匠ではいられない。
それに、クラーラ様を一生支え続けなければいけない。そんなの……。
助けたことにはならないだろ。
俺はぐっと手を止めた。
生唾を飲み込み、ただ、クラーラ様と見つめあった。
彼女の顔はすぐそこにあった。あと数センチ、お互いが顔を前に出せば、唇が触れあってしまう、そんな距離だった。
俺は、何とか口を開いた。
「最初から、そのつもりだったんですか?」
「最初から?」とクラーラ様は俺の目の前で首を小さく傾げた。
「俺が、あなたと初めて会った時です」
思えば、その時から婚約者にするという話はあった。冗談のつもりだと思ってたけど、もしかしたらクラーラ様だけはずっと本気だったかもしれない。
俺はこの状況に、一度余裕が欲しかった。ずっと水中に潜っているように息苦しかったのだ。水面に顔を出して、呼吸がしたかった。
クラーラ様が腕をほどく。それから、座りなおしてまっすぐに前を向いて言う。俺は彼女の横顔を見つめていた。口紅が塗られた赤い唇が動く。
「ええ。そうよ。魔族を倒せるあなたなら、わたしを守り切ってくれると思ったから。だから、アリシアを焚きつけてこんな勝負をしたの」
「クラーラ様」
「だから、ねえ」
クラーラ様がもう一度、俺のほうを向いた。
「あなたが、わたしを守って。わたしの婚約者でしょう? そうじゃないなら、わたしはなんのために戦っていたの?」
クラーラ様の言うとおりだ。俺はどれだけ身勝手だったのだろうか。アリシアとクラーラ様の二人に迷惑をかけたくないから、婚約は受けないなんて。少なくとも、クラーラ様は打算的な理由ではあるが本気だったのだ。きっと、レグルス国王様が何と言ったって、クラーラ様に止まる気はないだろう。それぐらいの覚悟は、今のクラーラ様を見れば分かる。つまり、俺はそれを受け止めなくてはならないんだ。
だけど、そこには一つの前提条件があった。それは、俺がアレクシス様に認めてもらえなければ、という条件だ。
「いえ」と俺は言った。「まだ、俺はあなたの婚約者ではありません。俺は、アリシアとクラーラ様、どちらの婚約者にもならないために、明日を迎えました」
「お兄様に、勝つというの?」
俺は頷く。
「……。わたしを助けてはくれないの?」
俺は、何も答えられなかった。ただ沈黙を積み重ねるしかできない。クラーラ様の婚約者になっても、きっとそれはクラーラ様を本当に助けることにはならないだろうと、そんな予感だけがある。
何もできないでいると、クラーラ様は微笑んだ。それから、勢いよく立ち上がる。
「なーんて。ごめんね、ヴァン」
「え?」
「分かってるわ。無茶を言ってごめんなさい。さて、部屋に戻るとするわ。あなたも、明日に備えてゆっくり眠りなさい」
クラーラ様が扉に手を掛けた。俺は立ち上がって、呼び止めていた。
「クラーラ様」
「ヴァン」
彼女が振り向く。その頬に、涙が流れるのが見えた。
「わたしも、救ってくれるの?」
「……。困っている人を助けるのがルーン魔術師です」
俺は言った。クラーラ様は、自嘲気味に笑う。
「……楽しみにしているわ」
クラーラ様が部屋を出ていく。残ったのは、沈黙だけだった。