きつねのやしろ
昼と夜の狭間、黎明の刻に、異界への扉は開く。
今宵、私を呼ぶのは誰?
私が生まれた頃には、既に永くこの御山は姫神様の治めておられる地でありました。
人間が参拝に訪れ様々な貢ぎ物をしたり社を建てたりすることはあれど、
御山を居住とする人間はおりませんでした。
ここは姫神様の山なのです。
昔の人々は神との関係性をよく心得ていたものでした。
神とは個々の小さな願い事を叶えるためにあるものでは無いことを知っていましたから、むやみやたらと願い事をすることも無く、
神様とはただただ畏れ敬うものでありました。
だから私達、御山の獣は、姫神の威光のおかげで神獣であるとされ、人に狩られるようなことも無く平和に生きていられたのです。
清浄なる御山と日月の精をぞんぶんに浴び、私達はすこやかに永く生きる。
そんな年月を重ねるうちに私達の中では自然と術が使えるようになったものも出てきました。
私もまたその一匹。
時に巫女の姿に変化して、姫神様への恩返しに神殿のお手伝いをしたり、
また時にはこっそり人里におりて、人間の中に紛れ込み、ちょっとした悪戯をしたりもしました。
不思議なのは、私達じたいが何も変わることがないのに、
御山や神殿にいるときは「神獣」「神の使い」と呼ばれ、
神域を出て人里に降りると「妖怪」「妖魔」と呼ばれました。
何と呼ばれるかは人間にお任せしても、私達はいっこうに構わないのです。
人の世とひそやかに触れ合うのは、とても刺激的でおもしろいのですから。
はたして、どれほどの人間が知っているのか。
人が建てたあの赤い鳥居こそが、
現世と異界を跨ぎ、我等を召喚せし門であることを。
昼と夜と狭間、黎明の刻に、異界への扉が開く。
私達は人の姿を借り、門を通り現世へとやってくることができる。
門を開き、私達を喚ぶのは、
人の強い願い、
欲望。
だけど人は知らない。
人の願いを叶えるかどうかなど、狐の知ったことではないのだ。
たまには気紛れでささやかな願い事を手伝ってあげることもあるかもしれない。
もしかしたら位のある狐がやってくることもあるかもしれないが。
ただひとついえるのは、願いの強さや真剣さは狐には全く関係が無いということ。
狐はいつも気紛れだから。
私達は月が沈む夜明けまで、
夜の中を駆け抜ける。
人々の尽きない欲望の味は、我々狐の精気となりこの身を巡る。
人と狐の不思議な因果。
その意味を、人はたぶん知る必要すら無い。
深入りしすぎては、心を乱すだけ。
やがてくる滅びの時まで、
享楽的な神々とただ戯れているがいい…