黒服の人
ある日、荻野恵美の元に一通の封筒が届いた。少し厚みのある茶封筒で中は便箋ではなさそうだ。裏を見ると差出人の住所はなかった、少し粗雑な字で書かれた「福田真司」という宛名が書かれていた。
「……なんで真司からきてんの?」
真司と恵美は小学校からの幼馴染兼腐れ縁で、高校卒業まで不思議な縁でもあるのか、クラスが一度も離れたことが無い。名前順に並ぶときこそ「荻野」である恵美と「福田」の真司は近くになることはなかったが、新しい学年に上がり新しい教室に入る度「なんでお前またいるんだよ!」という二重奏が、一一回ほど繰り広げられていた。高校卒業後地元に残った真司と、都心の東京女子短大に進学した恵美の間には物理的な距離と互いの生活時間のズレが生じた。それに何より、あまりにも近すぎる関係だったからこそ男女間の特別な意識というものはなく、疎遠になっていた。
それが、数年ぶりの連絡である。
「住所くらい書きなさいよ、まったく……」
家族ぐるみの付き合いではあったし、携帯のアドレスは教えていたはず。ただ、職人の父を持つ真司は小さな頃から真似をするほど父親を尊敬していたために「デジタルっていうのは、どうも好まん」など理由の無い信念を持つために、携帯に真司からメールが来ることは、今まで一度もない。
蛍光灯に透かしてみたが中に紙のような物は入っていない。はさみを取り出すことも面倒で、封の隙間に指を突っ込み乱雑に開けた。
中から出てきたのは、一本のカセットテープ。
「……また古風な物を。っていうかカセットデッキなんて今時持ってないっての」
両面合わせて六十分のカセットテープは律儀にツメが折られ、巻き戻しもされていた。音楽は普段から好んで聴いている恵美だが、さすがにカセットテープの類は高校の半ば位で音楽プレイヤーへと転向してしまっている。当時はデッキも持っていたが、今はさすがに――
「あのプレイヤー、確かついてる」
高校の初バイトで買ったオーディオコンポを思い出す。
MP3プレイヤーに買い換えてからというもの出番が少なくなっていたそれは、まだ当時カセットが現役だったこともあり、奮発して多機能なものを選んだ。CDとMDの差込画面が前面に。普段フォトスタンドを置いてれていたが、天頂部分がカセットの差込口になっている。
「つーか、封書で送ってくるなら手紙書けばいいのに。何がデジタルは好まん、よ」
久しぶりにコンポを起動した。差込口に送られたてきたカセットを差込み、再生ボタンを押す。プラスチックの揺れる音とテープの表面を僅かに擦る小さな駆動音。レトロ感漂う懐かしい音を聴きながら、ボリュームを調整した。
『あーあー……これもう録音されてんのか? えっと録音ボタン押してるし、テープ回ってんし。あっいいのか』
久しぶりに聞く真司の声。テープという特有の篭った感じはあったが、真司の声は変声期を終えて少し落ち着いた大人の声をしている。ただ子供の頃から変わらない口調に、恵美は僅かに笑った。
『おっす荻、久しぶり。えーっと、唐突にこんなものを送られて驚いているお前の顔が想像できわけだが、特別意味はない。ほら俺デジタルは好まないタイプだから、お前がどうしているかという連絡を取ろうと思ったんだが、ケータイもすま、ほ? とかも俺にはよくわからん。手紙を書くのも面倒だから、ビデオレターならぬテープレターを思いついた。俺って頭良いだろ!』
脳内に真司の自慢げな顔が浮かび、思わず堪えきれず笑い声が漏れる。
『東京行ってからどうしてんだ? 短大って確か二年で卒業だよな……ということは、もう就職しているのか。仕事は何してるんだ? 俺はとっくに修行期間を終えて、親父の後を継ぐべく毎日工房にいるんだけどさ。親父がやばいんだよ。俺が親父の技術を継ぐって言ったとたん「仕事上お前とは親子の縁を切る」とか言われて最初は冗談に思うだろ? 修行初日に俺、マジで木槌で殴られた』
典型的な口よりも手が出る職人気質の真司の父・武一は、恵美が覚えている限り笑ったことが無い。ただ真司が武一の仕事を継ぐと学校教諭に告げた日、唐突的に恵美の父を連れ出し飲みに行くような不器用さは、なんとなく好きだった。
(そうだ、なんだかんだで忙しくて実家、帰ってないな)
あっという間に過ぎ去った短大時代。その後就職した広告代理店は忙しく、盆と正月くらいはと思いながらも、まだ社会人二年目に入った恵美に帰郷するほどの体力も気力もない。必然的に、真司とも同じ期間顔を合わせていない事になる。
テープのA面は真司の職人修行の話。B面は地元の話が中心だった。聴いているうちに郷愁に浸り、少し涙腺が緩んでくる。
『まぁお前も忙しいとは思うんだけどさ、帰れる時は帰ってこいよ。お互い成人したんだし飲みに行こうぜ。俺は日本酒の味を覚』
終わりを予測できなかったのか中途半端なところで声が途切れ、テープの止まる音がする。帰宅してからあっという間に一時間が過ぎていたことに気づき、恵美は慌ててコンポの電源を切った。
翌日。終電に飛び乗り疲労に浮腫んだ足を引きずって帰宅をすると、やはりポストの中には茶封筒が入っていた。「職人って暇なの? 律儀なもんね」と疲れた心は毒ついたが、荒んだ心はくだらないことを求めていて、恵美は昨日のカセットと入れ換えた。再生を押すとしばらくしてまた、真司の声が聞こえてくる。
『よっ荻、昨日ぶりな! 俺確認してないんだけど、昨日のテープ最後まで録音されてたかな。三十分って以外に短いよなー、両面使って一時間だけどさ。まぁ俺の監視が傍にあるわけじゃないから、お前も一時間丸っと聴いてるかどうか、わかんねぇよな』
僅かに自信を無くしたような声。その後はまるで取り繕うように、テープの中の真司は矢継ぎ早に話題を変えた。
地元に新しくできた居酒屋が美味いということ。
小学校時代の先生が教員から退職したということ。
父親に初めて仕事を褒められたこと。
その後調子に乗っていたら、ボロクソに怒られたこと。
目まぐるしいほどの話題は途中でテープが切れてしまったが、裏面も同じような感じだった。
(そういえば真司は喜怒哀楽も激しくて。話していると表情がくるくる変わってた)
テープレコーダーかカセットデッキに向かって一人、身振り手振りと表情を変え喋っているだろう真司を想像した。近年の顔はイメージできなかったが、高校時代の真司の姿のままで真剣に機械相手に喋り続ける彼を想像してしまい、思わず笑う。
重く荒んでいた心がいつの間にか軽くなっていることに、恵美はまだ気づいていない。
(しょうがない。何かレスポンスしてやるか)
昨日の今日とはいえ、テープを恵美が聴いているかどうかを知らないまま、真司は録音している。恵美はメールの返信こそ早いが、決して筆まめだとは言えない。手紙を書くなんて何年ぶりだろうと思い腰を上げたところで、はたと気づいた。
「真司の実家の住所、覚えてない」
高校まで一緒で、家族ぐるみの付き合いで、そもそも手紙のやり取りをするような間柄でもなかった。年賀状のやり取りこそあったが、それも恵美と真司の間ではなく親同士で家族一括のもの。母にメールなり電話なりで聴くことは簡単だったが、すでに日付は変わっている。今電話をするのは迷惑でしかない。
ならばメールでと思ったが、思い立った時にやらねば絶対返事などしないだろう。そう思い恵美は携帯のアドレス帳を起動した。真司のほうからは一度もアドレス変更の連絡はきていない。恵美からのアドレス変更メールが返ってきたことは一度もないため、ここ数ヶ月の間で変えてなければ、真司のアドレスは今も変わっていないだろう。
――ずいぶん古めかしい事するじゃない。テープもデジタルだって気づいてた?
絵文字も使わない、シンプルで端的なメール。他にも何か書き加えようかと考えたが、アドレスが変わっていたとしたらただの徒労になる。
「ええい、これで変わってたら絶対返事なんてしないからね!」
誰に言うでもなく叫び、恵美は一度だけ強く送信ボタンを押す。鳩がメールを持って飛んでいくアニメーションがしばらく続き、「送信完了しました」という画面に切り替わる。その後数分待ってみたが、宛先不明のメールは返ってこなかった。
律儀なことに、翌日も真司からテープが届いた。ただその日はこれまでと違い、両面で三十分だけの短いもの。真司も話題がないのかあっという間にテープは終わってしまう。
(メール送ったのにそれについての突っ込みはなし? もう飽きたかな……三日坊主め)
コンポから聴き終えたカセットテープを抜き出し、恵美はほんの僅かな寂しさを感じながら、ケースにしまった。
その翌日はさらに短くなりテープは二十分。当たり障りの無い季節の話と、別れの挨拶。それだけであっという間に、テープが止まる。特にメールをするようなこともなかった。
その翌日、届いたテープは六十分に復活していた。
『テープもデジタルとか言うなよ! 手紙書くこと考えたらこっちのほうがお互い楽だろ!』
昨日のテンションの低さとは裏腹な、明るく陽気な真司の声。ただし、内容は今までと違って脈略もあるし、あれこれと変わることがない。
「テープもデジタル……?」
一瞬なんの話だと首を傾げそうになり、脳裏に鳩が浮かぶ。
三日前に送った文面。たった数行の簡素なメールを思い出し、深夜に近いというのに恵美は声を出して笑った。
「何、これ、こっちに届くまでに何日かズレてんの!」
そうだと解ると二日続いた短いテープも納得がいく。そもそも恵美たちの故郷からこちらへは、それなりの距離がある。
恵美がメールを送ったのは三日前。だが送ったのはほとんど日付の変わった深夜のこと。翌朝に恵美からのメールを見て、その日のうちに真司が返事を録音して郵送したとしても、こちらの手元へ届くのは発送日を含めた三日目。だからメールを送った翌日のテープは、ちょうど恵美が一本目のテープを受け取った日に録音し、発送されたものということだ。
「自分でやっといて、届くまでの日数気づいてなかったのか!」
悲鳴のような笑いが止まらない。体系キープのために普段から軽い運動を心がけている恵美の腹筋も、続く笑いの痛みには耐え切れなかった。
それから物理と時間の距離が開いた二人の奇妙なやり取りが始まった。互いに時間のズレは気にせず、恵美は届いたテープの返事をメールで送り続けた。一度「メールで返事すればいいじゃない」と追伸をしたことがあるのだが、それすらも真司は『メールは好かん』と、やはり二日後のテープが終わりに呟いた。相変わらず裏面にも住所を書くことはない。
「職人気質っていうか、ただ頑固なだけでしょ」
突如日の目を見始めたコンポに埃避けの布をかけながら、恵美は苦笑した。
日々送られてくる六十分のテープがコンポの前に並んでいく。真司の方もペース配分を覚えたのか、表の三十分で恵美からのメールの返事を返し、裏はその場で思いついた話をするようになった。やり取りを始めて十日目は本当に話すことが無かったのか、三十分ずっと真司のカラオケが録音されていた。しかも、完全なアカペラ。
――下手すぎ、あと選曲が古い。なんでそこで演歌なのよ。
『お前「天城越え」ばかにすんな! どうせ相変わらずチャラチャラしたの聴いてんだろ』
返ってくる返事はおおよそ予測できたが、実際本人の声で聴くとどうしても頭の中で表情まで浮かんできて、その度に恵美は腹筋を痛める羽目になった。
そのやり取りがちょうど二週間。どんなに疲れ遅くに帰宅しても、恵美は届くテープをコンポに入れた。数日前に送ったは最近気になっている映画の話だった。ちょうど上映中の「シャーロック・ホームズが気になっている」という旨を伝えた、その返事が録音されているだろうテープを再生する。
テープから流れる空気の音。
僅かに鼻を啜る小さな音が、しばらく続く。
『荻』
明らかな涙交じりの真司の声に、恵美は思わずコーヒーを入れる手を止めじっとコンポを見つめた。
『うちにいた、豆太、覚えているか』
また間が空く。ほとんど囁くような声が聞き取れず、夜だというのも忘れて恵美は一気にボリュームを上げた。ジリジリとテープ特有の擦れる音と啜り泣きが、部屋に響く。
『あいつ、今日死んだんだ。結構歳いってたし、そろそろだろうって言われてたんだけど……朝起きて、散歩連れて行こうとしたら……もう、冷たかった』
豆太という名を聞いたのは久しぶりだ。
恵美が小学生の時に道端で拾った子犬で、元々は彼女が飼うつもりで自宅に連れて帰った。当時母が動物アレルギー持ちだと知らず、困ったような顔と言葉に、子供ながら冷たい親だと思ったのを覚えている。
「可哀想だし飼ってやりたい気持ちもあるけど、お母さんが無理なの。ごめんね、恵美」
それを見ていた真司が引き取ると言い出し、武一と壮絶な怒鳴りあいを繰り広げた後に「豆太」と名づけられた子犬は、藤田家の家族となった。雑種だったのかあれよあれよその名に似合わぬ大きな成犬となたが……思い出してみると、ずいぶんと長生きをしてたようだ。
『なぁ荻……どうしてこうも簡単に、生きてるもんって、死ぬんだろうな』
いつもの明るい真司の声が聞こえてこない。静かになった部屋にカセットテープの止まる音が響く。裏面に返して再生したが録音をし忘れたのか、何も入っていない。
携帯のアドレス帳を起動して「藤田 真司」を呼び出す。メールではなくて直接励ましてやりたかった。豆太が死んでから三日経っているのは解っていたし、もう立ち直っているなら、真司の明るい声が聴きたいと思った。
耳元で響くコール音。
結局真司は、電話に出なかった。
昨夜のうちに凶報に対してメールで慰めの言葉を送ったが、相変わらず真司から携帯への返事はない。たとえペットだとしても小学校の頃から家族として傍にいたのだ。恵美ですら辛いのだから、家族同然だった真司の辛さは、昨日のテープから感じることができる。
(真司、大丈夫かな)
帰宅の足取りが重い。空のポストを見るのは辛かったが、防犯のためと半ば習慣づいた手がダイヤル式の南京錠を開ける。チラシをまとめて引き寄せると間に挟まっていたのか軽いプラスチックの衝撃音が、足元で響いた。
反射的にしゃがみ込む。
茶色い少し厚みのある封筒。手紙らしからぬ硬い手触り。表に書かれた少し粗雑な「荻野 恵美様」と、裏に書かれた「藤田 真司」の文字。
ポストの扉を乱暴に閉める。南京錠を閉め、適当にダイヤルを回した。足早に階段を駆け上り乱暴に玄関を開け閉めした。スプリングコートを脱ぐのも煩わしく、通勤バッグをベッドに放り投げコンポの電源を入れた。丁寧に開ける余裕もなく破り捨てるように封を開け、テープをコンポに差し込んだ。
『えーっと、よう荻。昨日はごめんな』
僅かに覇気がないにせよ、昨日のテープよりも明るい真司の声。テープ半分が空白だったことへの謝罪と、豆太はきちんと焼いてもらったという事。僅かに寂しそうな声で、真司が淡々と報告してくる。
『俺がずっと泣いててもさ、豆太が喜ばねぇよって、親父に怒鳴られた。誰にも看取られなかったとしても大往生だったんだから、豆太は幸せだって』
恵美には、武一がさほど豆太を気にかけていた覚えはなかった。そういう約束だったにせよ世話も散歩も真司が行っていたし、ドッグフードも真司のお小遣いを大幅に削ったそうだ。もちろんかまっている姿を見たことは一度も無い。それでも豆太は、武一に懐いていた。
『ずるいよな、親父ってば俺たちが学校に行ってる間に豆太と遊んでたんだって。俺の小遣いじゃ買えないようなちょっと良い肉とかあげててたんだぜ? そりゃ親父に懐くわけだよ。豆太の火葬中聞かされてみろよ、マジ驚いて俺、泣くタイミング逃した』
真司が小さく笑う。
武一の笑顔と言われ、あの気難しそうな口元を一文字にした顔で豆太と遊ぶ様を想像してみた。笑いを堪えることなどできなかった。
(よかった、真司、大丈夫そう)
表の三十分は火葬場での話が中心だった。裏はまたいつもどおり、真司の適当な思い付き話が録音されている。聴き終え、携帯のメール機能を起動して返事を書いた。送信を確認し、帰宅後そのままだったコートを脱いだ。
豆太のことがあったにせよ、明日からもまた普通に真司からテープが送られてくると思っていた。
その翌日、ポストに茶封筒は無い。
――テープ届かないけど、送った? 郵便事故の可能性もあるから、送ったか送ってないかだけ、返事をください。
さらに翌日の夜、やはり茶封筒はポストに入っていなかった。郵便局に問い合わせをしようかとも思ったが、残業だったため既に夜十時を回ってしまっている。この時間では本局もやっていない。
「メール便とか、デジタル嫌わないでパソコンのメールとかにすればいいのに」
呟いたが、真司がメール便を知っているとは思えなかった。恵美ですら社会人になってから、宅配業者が行っているメール便の存在を知った。詳しいシステムはよくわからないが、郵便と変わらない料金で宅配業者が配達してくれるという安心感がある。地元にもコンビニはあるのだし、受付はしているだろう。
――事故の可能性を考えたら、宅急便とかのほうが安全じゃない? メール便っていうのもあるよ。調べてみようか
ポストの前で携帯のメール機能を立ち上げ打ち込む。メールで返事が返ってこないと判っていたが、送信ボタンを押した。アニメーションの鳩がメールを運んでいく。
恵美はふっと思い出して、ポストを閉めた。
「荻野恵美さん宛に簡易書留です。受け取りに印鑑をお願いします」
出かける予定もなかった土曜の午後二時頃、恵美の部屋のインターホンが鳴った。
聞き慣れない種類の書留。両親から何か送るという連絡は無かった。いつだったか、ランダムに選んだ住所へ荷物を勝手に送りつけ、受け取ったのを確認したことを証拠に代金を請求する詐欺があるというのを聴いたような覚えがある。エステのダイレクトメールなどが送られてくるのも、いつの間にかこの部屋の住所が洩れている証だ。
「あの、差出人はどなたですか」
「えーっと、『藤田真司さん』です。あぁでも住所が書いてませんね、心当たりがなければお引取り」
「あります! ちょっと待ってくださいサインで大丈夫ですよね!?」
いつもと同じ簡素な茶封筒は厚みも重さも、少し粗雑な字も変わっていない。表面に貼られた「簡易書留」のシールだけが、いつもと違っていた。
ポストの投函と違ってサインを必要とする辺り普通郵便よりは確かだろう。
ただ、その指摘をしたのは一昨日。恵美が指摘するよりも前にこのテープは送られている。恵美の下へ確実に届くように。
封筒の中に入っていたカセットテープの種類が違った。六十分テープではなく、九十分。いつもより長い。ツメも折ってある巻き戻しもされている。今までのテープと違い、唯一そのテープの裏面にだけ「荻へ」と書かれたラベルが貼ってあった。
聴くのが怖い。
受け取って初めて感じる気持ち。それでも真司はこのテープを確実に恵美の下へ届けるようにしている。なら、今聞かなければ後悔するかもしれない。
今までで一番、再生ボタンが重く感じた。
ゆっくりと回り始めるテープ。ボリュームを上げると、僅かに規則的な電子音が聞こえた。救命救急などのドラマやドキュメンタリーで聴いたことのある、高く単調な音。
『……おっす荻』
機械音よりは大きいものの、今まで聞いたどのカセットテープよりも弱弱しい真司の声。なのに頭に浮かんだ彼は、笑っている。
『まず二日ほどテープが途切れてゴメン。別に飽きたとか郵便事故でどっか無くなった、ということはない。俺が出せなかった、ゴメン。携帯に連絡すれば良いと思ったんだけど、ほら俺、デジタル好かんし』
いつもよりゆっくりと喋る真司の声に被さるように、規則正しい電子音が鳴っている。このテープを録音している時、彼がどこにいるか、聞かなくても判った。
『えーっとまぁ、荻は俺より頭良いから気づいてると思うけど。今、入院してます。正直ちょっとしんどいです。吐き気が酷くてまともに飯が食えないから、栄養を補うためとかで点滴と、胃に直接なんか栄養送ってるらしくて鼻にチューブ突っ込まれてんだけど。今すっごいとんこつラーメンが食いたい』
「何バカなこと言って……っ!」
側に居るわけでも無いのに、恵美の口から勝手に言葉がこぼれる。
『入院中暇だったんで、お袋に頼んで荻が聴いてたチャラい歌手のアルバムを借りてきてもらったんだけど。バカにして悪かった、いやうん。なんか俺も好きだなって思った。特に「Cheese Burger」って曲? あれずるいよな、食いたくなった』
楽しそうに歌い出した曲は恵美が好きで聴いていたグループの、まさにソレだった。軽やかなテンポで許可を取っているかいささか怪しい聴きなれたキャッチコピー。それを歌詞として歌に紛れ込ませている。
今まで送られてきたカセットテープの中に、真司が歌っているものはあった。その時よりも、彼は楽しそうに歌っている。
『俺が退院する日にさ、荻帰ってこいよ。俺チーズバーガーととんこつラーメン食いたいから付き合って。チャーシュー五枚くらい乗ってんの食いてぇな』
いつもと変わらない様子で彼はずっと喋り続ける。明日の天気の話でもするかのように明るい声で、恵美が聞いているだろう様子を想像しながら。
三日後の恵美に向け。
鼻歌が突然途切れる。しばらく無音が続いてカセットテープの止まる音がした。
その音で恵美は我に返った。まだカセットは半分残っていたが、机の上に放置していた携帯電話を掴み乱雑な手付きでショートカットを起動する。いちいちアドレス帳からメールを開くのが面倒で登録しておいた「藤田 真司」の欄。番号にカーソルを合わせて通話ボタンを押した。
「出ろ……出なきゃマックもラーメンも付き合ってやんないからね……!」
耳元で鳴るコール音が長く感じる。五回、十回と回数を数えるのも怖くなっていく。
病院の中にいるのだろうから通話が禁止なのは解っていた。それでも何か反応が欲しかった。携帯片手に病院の外へ出れば通話はできるし、第一コール音がする時点で病室でも電源は切っていない。
コール音がまだ続く。留守番転送もかからない。
『はい』
五分位してようやく声が聞こえた。
「真司!? あの、今」
『…………荻野んとこの、娘さんか』
受話の向こうから聞こえた声は真司のものではない。もっと低くて、落ち着いた大人の声をしている。だが、覇気がない。
「もしかして、おじさん……?」
『真司の父の、武一です』
「あのこれ、真司の携帯ですよね? 傍にいたら彼に変わって下さい。入院しているって聞いて……」
電話の向こうで、僅かに息を飲むような音がした。
土曜日の午後。テレビもない恵美の部屋にも、どこに居るのか武一の背後にも、一切の音がない。
本当に長い沈黙が続いた。
『恵美さん、来週の土曜日、こちらに帰って来れませんか。なんなら私が新幹線代を出します』
「なん……」
『来週、葬式を開きます。真司が貴方を絶対呼んで欲しいと、妻宛のテープに一言、残ってました。息子の最期の願いくらい、聞いてやりたい』
耳元で甲高い音が鳴った。高い規則的な電子音が通話を遮断する。
画面を見ると、充電が切れることを告げるマークが表示されている。
耳に残る電子音。
真司の後ろで鳴っていた電子音と、そっくりだった。
数年ぶりの帰郷の日は曇天だった。雨は降らないと携帯のワンセグに映る予報士は伝えていたが、恵美は荷物の中に折畳み傘を入れた。
結局あの日から、最後のテープの裏面は聴けないでいた。
見慣れた景色に溶け込んでいく。高校までの思い出がまざまざと浮かんできては、背後へ流れていく。両親には事前に連絡を入れていたので荷物は宅急便で送っておいた。着いたその足で、式場へ向かった。
「……あぁメグちゃん、久しぶり。大きくなったね」
「お久しぶりです、おばさん。この度は誠に」
数年ぶりに会った真司の母親を見て驚いた。ふくよかで職人の妻に似合いの肝っ玉かあちゃんとも言うべきタイプだった彼女が、見るからに痩せ細っている。年だけでは生み出せない疲れの影が、しわと白髪という形で色濃く出ている。
「おっ、荻野んとこの」
小さな頃、岩のようだと感じた武一も、数年の年月のせいか小さくしぼんでいる。表情こそ昔と変わっていなかったが、あの時のような近寄りがたい職人のオーラが、今は見る影もなかった。
黙々と進む葬式を一番背後の席で見守る。飾られている真司の写真は恵美の最後の記憶より少し大人びていて、やっぱり笑っていた。
つい先週まで、彼の生き生きとした声を聴いていた。最後に受け取ったカセットテープを聴いている時にはもう、真司はこの世を去っている。毎日のように聞き続けた彼の声が、恵美の耳から離れない。
「結局、なんでテープ送ってきてたのかもわかんないし」
最初に受け取ったテープで真司は「特に理由はない」と言っていた。入院したのがいつ頃なのか、そもそもなんの病だったのかも、恵美は知らない。
「恵美さん」
葬式が終わり食事会に出ることもなく帰ろうとした恵美を武一が呼び止めた。昔と変わらない一文字に引かれた口元を見ると息子の死を強く受け止めているように思えたが、年のせいで落ち窪んだ目は、赤く充血していた。
「妻に聞いたら貴方のことを『荻』と呼んでいたと」
「はい、あの。荻野なので、小さい頃からそう呼ばれてました」
「真司が病院に持って行っていたテープレコーダーに、入っていた。息を引き取るまで録っていたみたいで……これは、貴方宛です」
そう言って差し出された透明なケースに入ったカセットテープ。今までと同じように巻き戻された状態のそれを、恵美は受け取った。茶封筒に入っていないのは、初めてだった。
「真司が何を貴方に伝えたか、聴いてもいいかい」
「住所を教えていただければ、後日遺品としてお返ししますが」
「いらん、デジタルは好かん。おかげであのバカ息子、妻にだけ残しやがった」
真司のデジタル嫌いの本家を目の前で見てしまい、失礼と思いながらも恵美は僅かに笑ってしまう。
武一も気にした様子はなかったが、その後言いづらそうに言葉を続ける。
「それに、そのテープは真司がお前さんに宛てたもんだ。できればお前さんに、持ってて欲しい」
「わかりました。父に住所を聞いて、後ほど手紙を出させていただきます」
武一に礼を述べ、恵美は葬儀場を出た。黒いハンドバックの中からネットオークションで買ったポータブルカセットプレイヤーを取り出す。家までさほど距離はなかったが、受け取ったテープは僅か二十分。それくらいならば、多少遠回りをするかゆっくり歩けば、聴き終えることができる。
『荻野恵美さん』
他人行儀な真司の声が耳に響く。背後に聞こえる電子音が、僅かに早い。
『これを聴いてる頃、もしかしたら俺はもう死んでるかもしれない。もしかしたら生きてるかもしれないんだけど、もし生きてたら奢るので、チーズバーガーととんこつラーメンと、チョコサンデーを食べに行くのを付き合ってください』
この間よりメニューが増えている。
(そんなものいくらでも付き合うわよ)
心の中で囁くと、テープの向こうの彼が僅かに嬉しそうに笑った。
『あと、書留で送ったテープの裏面をもし聴いてなかったら、そのテープは捨ててください。ものすごい恥ずかしいことを言ったので、聴かれたくないのと、退院したらそのテープの内容を、直』
耳元で電子音が響いた。僅かな空白の後、自動的に裏面を再生する機能がついていたのか、しばらくしてまた真司が喋り出す。
『あぁもう切れた。えっと、突然テープを送ってすみませんでした。録音も送るのも、これで最後にする。次は直接会って喋りたし、声も聴きたい』
テープの向こうで、真司が深く呼吸をする音がした。
『荻、ありがとう。これからもよろしく』
脳裏に葬儀場で見た真司の写真が浮かぶ。
また耳音で電子音が鳴り、今度こそテープは沈黙する。
実家に着き、背後で玄関が閉まった。喪服姿の恵美の母が玄関まで出迎えにくる。心配そうな顔をして恵美に何か言っていたが、イヤホンをしているせいで、篭って僅かに聞き取れない。
耳元で聞こえなくなった真司の声。テープには残っていても、もう彼の声は聞けない。死んでいることを忘れそうなほど生き生きとした声も、死んだことを忘れさせないための最後のテープも。上京先に置いてきた今までの全てのテープが、上書きされないようにツメが折られていたのを思い出す。
これから何十年も、テープが擦り切れてしまうまで、真司の声は忘れないだろう。顔も姿も忘れても声はずっと恵美の耳に残り、時には死んだことすら忘れさせる。死んだことを忘れても、真司には二度と会えない。
あふれ出す涙を堪えきれず、恵美はその場で泣き崩れた。