鳴らないピアノ
2012年COMITIA100合わせで発行した短編集に収録された1作品目です。
版組も内容もまだまだ稚拙な頃でしたが、思い入れだけは強い作品でした。
全て私自身が好きな楽曲をモチーフとタイトルにさせていただいています。
モチーフに起用させていただきました楽曲ないしアーティストと
本作はなんら関係ありません。
御手に取ってくださった全ての方々と
日々インスピレーションを与えてくださる
多くのアーティストと創作に
感謝をこめて。
「絵理ちゃんはとても絵が上手ね。名前の通り、絵が好きなのね」
そんな言葉を言われて育った幼少時代。他の子よりは自分で言うのもなんだが本当に絵が上手くて、褒められるのが嬉しかった。けど、それ以上に何よりも、絵を描くのが好きだった。
世界を紙に切り取るのも、自分の空想の世界を表現するのも楽しかった。特に後者の麻薬のような魅力はすごい。中学校に進学した時は見学もせずに美術部へ入部届けを提出し、漫画やアニメが好きな友人の影響で同人誌を知った。けどアニメやゲームを元にした同人には全くと言っていいほど、興味がなかった。
その興味の無かった世界に足を踏み入れたのは「創作同人即売会」なるものがあるというのを知ってしまったからだ。
詳しい友人に聴いて調べ、初めてイベントに行ったのが中学二年生の夏。小学生くらいの頃によくある遠足前日の眠れない興奮を越えて、私は遠く千葉まで人生で初めて、同人誌のイベントに足を踏み入れる。文化祭とバザーを足して良い所取りしたような空間。初夏のむせ返る熱気の中、年齢もさまざまな人たちが自分の作った物を並べて売っているある種異常な空間に、一気にテンションが上がった。五時間というのはあっという間で、会場から出た私はイベントの雰囲気に完全に呑まれていた。可愛い手作りの雑貨、漫画、小説、ポストカード。中にはゲームや音楽CDを売っている人もいた。創作であれば本当に、何でもありのイベント。
帰宅の電車の中でぽーっとなった私は、無意識のうちに小さく呟いた。
「私も、本、作りたい」
その後同人に詳しい友人を捕まえ、どうすれば本を作れるのかと根掘り葉掘り聞き出した。残念ながらイベントに出るための参加費がとても高くて、少ないお小遣いで参加は難しいと考えた私は、高校入学同時にイベントデビューを心に誓い、虎視眈々と、日夜漫画や絵を描いて過ごしていった。
(そんな、純粋な頃があったなぁ)
私が参加しているイベントは開催回数が少ない。だから毎回新しい作品を出したい。けど、どうしても本を出す上ではお小遣いだけでは到底が足りないから、親を説得して日数は少ないけれどアルバイトも始めた。普段は学校とバイト、そこに次回作の構想と勉強を。成績が落ちたらアルバイトを辞めるという約束もあって、とにかく必死だった。目的があって努力をするのは良いことだし、原稿を描く時間があまり取れないのもあって一回一回とにかく集中した。
いつの日にか、自分でも気づかないうちに、心にささくれができていた。
秋のイベントはテスト期間と被ってしまい、さすがに諦めた。そのテストの点数で親を黙らせて申し込んだ二月のイベント。学年末が近いこともあって新しい本は出せなかったけれど、およそ半年ぶりのイベントに意気揚々と訪れた私は、午後を過ぎた辺りからずっと俯いていた。
お隣になったのは男性の方で、並べた本の表紙を見た感じお世辞にも上手いと言えなかった。表紙もカラーじゃない、少し線も薄くて鉛筆でざくざくと描いた感じのどことなく雑に見える本の表紙。テーブルクロスも引かない簡素な値札のみのスペース。
自分の作品を売るんだからとディスプレイにも少し気を使っていた私とは、雲泥の差。みたいに思っっていた。
「あぁ、お久しぶりです。新刊いただけます?」
そんなやりとりをずっと隣で聴く。イベントに参加して長い人なのか、お隣さんを訪ねる人は多かった。声をかける人、一直線に来て読みもしないで買う人。一時スペースの前に三人ほど立ち読む人もいた。買う人にお礼は言うものの、男性は終始真顔で、本が売れて嬉しそうという感じがまったくしない。
対する私のほうは、今日一冊も売れていない。新刊もないし、一回だけとはいえ前回休んでしまった。隣の人が順調に売れていく中、私の本はまったく買ってもらえない。手に取る人はちらほらといたけれど、数ページ見たら閉じて行ってしまった。
(私の本は、そんなに面白くないんだろうか)
一番初めに出した本を自分で読んでみる。描き始めた当時あんなに試行錯誤して楽しんで描いた漫画が、とても色あせて見えた。眠気を堪えて描いた線や違和感のあるキャラクターのポーズ。かなり強引なハッピーエンド。確かに荒削りだし、もっと上手い人はたくさんいるというのはわかっていた。でも気に入っていた。ただの自己満足だと言われると判っていたけど、自分の作品のほうがずっと、魅力的に見えた。
(あー……なんか、泣きそう)
ぎゅうっと喉が痛くなって、ごまかすようにペットボトル飲料を飲み干す。短時間堪えたかと思うとまた喉が詰まる。他のスペースを見て回る気にもなれなくて、ぼんやりと携帯を開いた。
(三時……帰ろう)
イベントが終わるまでまだ一時間ほど時間はあったけど、もうスペースにいることが辛かった。二時を過ぎた頃から買い物だけの人―――イベント特有の言葉で言うなら一般参加者も少なくなったように感じて、あと一時間居ても売れないだろうと思った。それでも未練がましく少しゆっくりと後片付けをして、私は早々に会場から立ち去った。
周りの人たちの楽しげな声を聞きたくない。持っていたMP3プレイヤーを取り出す。いつもより大きめのボリュームでスタートを押すと、今はもう引退してしまった女性ボーカルのピアノ曲が流れる。
少し物悲しいメロディで始まる曲で、始めこそ少し穏やかな曲かと思えばサビは少しギターの音が強く入る。淡々と楽しそうに歌うのに、じっと聴くとずいぶんとネガティブな歌詞だったりする。
誰かを愛する気持ちを、ピアノに例えたような歌詞。どんな気持ちで書いたかは知らないけれど、彼女は賞賛されない悲しさに耐え切れなかったのだろうか。
その全部がどうしても今の自分に重なってしまった。
まだ帰る人のまばらな電車の中でどうしようもなく悲しくて、私は寝たフリをしながら涙を流した。
重いカートを引きずりながら地元駅に着く。いつものイベント帰りよりは早い時間で、家に飛んでいきたいと思いながらも、帰るのがとても億劫だった。駅前のマックとかで少しぼーっとしようかと思ったけれど、休日だということもあって席はほとんど埋まっている。電車に乗って通う距離の高校だから友人に鉢合わせなんてことはないけれど、小中時代の同級生はわからない。
自分の気配のない、でも他人も居ないなんて都合の良い場所なんて無いと解っていた。それでも少し遠回りしようと、いつも使わない裏道のほうに足を向けた。
静かな住宅街。日暮れはずいぶん伸びて、この時間はまだほとんど日中の明るさと変わりない。
ガラゴロと重たい音を連れ歩く。どこかの家から醤油の少し焦げたような匂いがするのに気づき、そこではたっと、お昼ご飯を食べ損ねたことに気がついた。スペースで食べるのは恥ずかしくていつも買い物に抜けたついでにエントランスっぽいところのベンチで食べていたけど、今回は買い物もほとんどしていない。コンビニで何か買おうと思っても近隣にはないし戻るのも億劫だった。
(ええい面倒だ、自宅に帰ってから何か漁ればいい。自販機でペットボトルの炭酸でも買って自飲みしてやる)
住宅街でも自販機くらいはある。
一度だけ自分に気合を入れてカートを持つ手を変えた。二輪の重いカートをずっと引っ張っていたから右手がだるくて痛い。今日はもうペンは持てないかもしれない。
緩やかな坂道を上りきったところで足を止めた。
道の端にお洒落なカフェとかにおいてあるような黒板タイプの看板が置いてある。白とピンクのチョークで書かれた「カフェギャラリー」の文字。
小さな頃からこの辺りに住んでいたけど、こんなものがあるとは知らなかった。
店内は薄暗くてお客さんも居ない。閉まっているのかと思ったけれど、扉のところには「OPEN」と彫られた小さなボードがかかっている。カフェって銘打っているなら何か食べれるんじゃないかと思ったのだけれど、店員さんらしき人も見当たらない。
「あんた、なにしてんの」
突然聞こえてきた声に驚いて心臓が跳ねた。ドアのガラス部分から中を覗いていたから、傍から見たら、私は完全な不審者だ。
振り向いた先に立っていたのは、白髪交じりの緩いウェーブ髪を後ろでひとつに束ねた、多分五〇過ぎのおばさん。少し不機嫌そうな顔で火のついてないタバコを咥えていて、あからさまな目つきで私を睨みつけてくる。一般的な主婦とかならまず着ないだろうデザインの黒い服を着ていたから、思わず「魔女だ」と言いそうになった。
「あの、ここにお店があるって知らなくて。ちょっと何か食べたいと思ったんですけど、お店の人もいないし……看板はかかっているけど開いているのかわからなくて」
「あぁ何、客だったの。おいで」
少し口調は柔らかくなったものの、表情を一切変えずおばさんは私を押しのけてお店のドアを開けた。扉につけられた金属性のベルが鳴る。
「ちょっとジョージ! お客さんだよ!」
勝手知ったる様子でお店に入るおばさんの後ろに恐る恐るついていく。
四人掛けのテーブル席が二つとカウンターだけという本当に小さな店内。壁際につけられたテーブル席側の白い壁面には、キャンバスに描かれた絵がいくつか飾ってある。
「ジョージ! ちょっといないの!? あぁあんた、好きなところ座りな。ジョージ!」
ほとんどがなり声を上げながら、おばさんはカウンターの奥に見えるカーテンの奥へと行ってしまった。
取り残された私はとりあえず、店内をぐるっと見回す。
(……あっあの絵、好き)
入り口側のテーブル席に飾られていた赤いキャンバス。少し淡い赤のグラデーションが上に向かって黄色く変わってて、下方には草原かな、真っ白な地平とぽつんと立つ木の絵。
決して技術の必要とする絵じゃないけれどその絵を近くで見たいと思って、私はそのテーブル席に腰を下ろした。じっと見ていると白い地平に立つシルエットが人にも見えてきた。綺麗な赤だなと、素直に思った。
「やぁごめんごめん、まさかお客さんが来るなんて思わなくて」
「しっかりしてちょうだいよ! あんたが表出てなきゃ、あたしは接客なんてできないんだからね」
カーテンの向こうから現れたおばさんと、眼鏡をかけた外国人の、多分ジョージさん。おじさんはおばさんとは正反対ですごく人が良さそうな笑みを浮かべている。ほとんど残っていない髪の毛は、全部真っ白だった。
「ごめんね、お嬢さん。なにせずっとお客さんなんて来なかったからさ。メニューはこれだよ、ランチはもう終わっているけどサンドイッチとホットケーキなら出せるからね」
流暢な日本語で水とメニューを置くジョージさんが店主、だというのはわかった。
じゃああのおばさんは何者なんだろう。勝手にカウンターでコーヒーを入れながら、咥えていたタバコに火をつけている。怒るどころか当たり前の顔をしてジョージさんは隣に立ったから、知り合いなんだというのは解った。
「ったく、変なところだけ凝るんだからさ。もうちょっとマシな食い物メニューを増やしなさいって言ってんだよ」
「良いじゃないか、喫茶店は飲み物にこだわってこそだろう?」
私がいることなどお構いなしに二人は言葉を交わし続けている。少しだけ迷ってホットケーキとミルクティーを頼んで、私はじっと、キャンバスの絵を見ていた。
「その絵、気に入ったの?」
その言葉が私に掛けられたものだと判らなくて反応が鈍くなった。カウンターに腰かけてタバコを吹かしながら、おばさんが私のほうを見ていた。
何を考えているのかわからない表情に少ししどろもどろになりながら、私は素直に好きだと言った。
「綺麗だとかって言うよりは、好きだなって思って。この絵の作者、知ってるんですか?」
カウンターの内側からバターの香りと湯気が昇っている。ジョージさんが一瞬チラッと、おばさんの方を見た。知らないなら知らないで良いのにと思っていたら、おばさんは私から視線を逸らしてぶっきらぼうに言った。
「あたしが描いたんだよ」
「……おばさんが?」
「北浦カナエって、知らないか? ずいぶん昔の話だけど、一時話題になった」
「ごめんなさい……知らないです」
「だろうね。見たところあんたまだ学生でしょ? 下手したらハイハイしている時の話さ」
ここにきておばさんの―――カナエさんの表情が動いた。笑っているけど、なんだか喜んでいる笑みじゃない。どこか怒っているようにも思えた。
失礼なことを言ったのかと思いどうしようかと悩んでいたら、カナエさんが私の向かいに座った。タバコは持っていなかったけど、僅かに甘い香りがした。
「大荷物だけど、旅行でも行ってきたのかい?」
「あっ……その、自分の作品を売る、バザーみたいなのの帰りで」
「何、人形とか何か?」
「その……漫画です」
「漫画!? えっ僕漫画大好きなんだよ、読みたい! カナ変わってよ!」
「うるさいよジョージ!」
カウンターから飛んできた子供みたいな声を一喝してカナエさんが向き直る。至近距離で見ると、本当に魔女みたいな雰囲気を感じ、なんだか心の奥を見透かされているような気がして、思わず身を竦めた。
「その様子だと、あんまり楽しくなかったみたいじゃないか。ちょっとその描いたもん見せてみな」
「あのでも、新しいものは無くて」
「いいから、全部お出し」
ぴしゃりと言われて慌ててカートの中から本を取り出す。イベントで何度も似た場面にあっているのに、無言で読むカナエさんを前にして、私はこの場から叫んで逃げたい衝動を、なんとか押さえ続けた。
しばらく時計が時間を刻む音と、水がゆっくりと沸く音だけが店内を包む。
カナエさんは私の本を読んでいる最中、一回も表情を動かさなかった。
「あんたこれ、どれくらい時間かけて描いたの?」
「大体……一冊に二、三ヶ月くらいです。バイトと学校の合間でだから、時間にしたらもっと短いけど」
「ふーん……悪い感じはしないね。確かにデッサンがおかしなところはあるし、最後もちょっと強引に感
じるけど」
イベント会場で自分でも思ったことをズバリと言われて、思わず視線を落とした。自覚はしていても誰かに言われると、やっぱり辛い。
「それで、あんたはこの話どう思ってんだい?」
「どうって」
「好きか、嫌いか」
その二択を迫られたら、選ぶ答えはひとつだ。でもそれをハッキリと言うとバカにされるんじゃないかと思って、少し小さな声で「好き」と答えた。
「だったらいいじゃないか。何そんな暗い顔してんだ」
「だって! 今、言ったじゃないですか! 絵は変なところあるし、話のラストだって強引な運びだって!」
「言ったよ、それはあたしが感じたままだからね。ジョージの持っている漫画と比べたら稚拙だし下手だと思うけど、悪い感じはしない」
「だから、見向きもされないんでしょ!」
喉の奥のほうで詰まっていた言葉が、涙と一緒に溢れ落ちた。ボロボロとこぼれる涙が止まらなくて、今日初めて会った人なのに、すごくみっともない姿を見せている。
「あーあ、カナ泣ーかしたー」
「ジョージ! いいからさっさと紅茶とコーヒー入れな! あんた、何で泣くんだい」
「だっ……て! 私ずっと絵が好きで、この話も好きで、中学校の頃から考えて頑張って描いてきて……っ、確かに今日新しい作品描けなかったし前回のイベント参加できなかったけど、たった一回、出なかっただけで、誰も私の作品見てくれなくてっ……!」
こんなこと、本物の画家に言ってもしょうがない気がした。カナエさんは絵を描いてそれが認められて、例え一時でもプロとして活躍していた人だ。私のように半分趣味のお遊び作品が売れなかったからと泣くなんて、カナエさんじゃなくてもおかしいと思うだろう。
イベント会場にいる間ずっと感じていたもやもやとした黒い気持ちが、今になってハッキリと言葉になって出てきた。
「私……私悔しくてっ! 隣に居た人よりもずっと自分の作品好きだから、丁寧に描いて、少しでも見てもらえるようにディスプレイだって頑張ってっ……なのに、なのに誰も、私の作品見てくれない。私すごく、大事にこの作品作ったのに!」
それからは言葉が詰まって、私はただしゃくりを上げ続けた。朝綺麗に引いたアイライナーはウォータープルーフじゃないから、きっと今パンダになっているかもしれない。そんなこと気にしてる余裕もなくて、手の甲で乱暴に目を擦った。案の定、手に薄く黒い跡がつく。
俯き泣く私を、カナエさんがじっと見つめてきた。「タバコ、吸うからね」と一言言い置いてから、席にあった灰皿を引き寄せる。ため息を形にするように、細く長い煙を吐き出した。
「泣くほどなんて、私はあんたがうらやましいよ」
言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかったかもしれない。「うらやましい」なんて、今の流れで出てくるような言葉じゃないから、驚いた私は自分が泣いているのも忘れて顔を上げ、カナエさんを見た。
「あんたも、あんたの作品もうらやましい。例え周りの反応がどうであれ、作品はあんたに愛されてる。だから大事に生み出したところで気に入らないところが出てくる、でも嫌いになれない。そんなの、愛がないよりよっぽど良い」
カナエさんから甘い匂いが香ってくる。バターや紅茶の香りじゃない、まるで花の蜜のような香り。その香りと煙をまとうカナエさんの表情は、暗かった。
「あんた、この絵が好きだって言ってたわね」
そう言ってタバコで指したのはあの赤い絵。私はタバコの先を一度見て、ほとんど蚊の泣くような声で頷いた。
カナエさんが立ち上がった。絵を壁から外して、料理も紅茶も運ばれてこないテーブルの上に置き、一度席を離れる。カウンターの裏に行って何か探していたようだが、探し物が見つかったのか、ジョージさんが怒った。
「カナ!」
「口出ししない約束だろ」
淡々とした声でカナエさんがジョージさんを黙らせる。戻ってきたカナエさんの手に握られていたのは、果物ナイフだ。
「……」
何の感情も浮かべず、カナエさんはそのナイフでほとんど無理やりと言っていいほどの扱いで、キャンバスを切った。ショックで声が出せない私の前で、まるでりんごでも剥くような……いや、一心不乱に絵を描くように、カナエさんはキャンバスの絵を切り裂いていく。そうしてカナエさんは、ナイフを置いて、絵なんかそこになかったかのような顔で席に座った。
「本当に愛してなかったらこうできる。あんたは泣いて悔しがるほど、怒るほど愛している。私にはそのほうが何倍も、うらやましい」
どこか憂いを帯びたカナエさんの声。
ほんの一瞬でも好きだった絵を、目の前で見るも無残な姿にされたショックで、私はしばらく放心していた。驚いた時、一緒に涙も引っ込んでしまったようだ。
「嫌だと思うなら描くのを辞めればいい、辞めることができるのはアマチュアのうち。プロになって売れでもしたら、嫌でも描かなきゃいけない。それ以外の生き方なんて知らなかったから、描かなきゃ生活できないんだよ」
「でも……描くことを辞めたら、何をしたらいい、の? 私、これ以外なにもしてこなかった」
本当に小さくて震える声をやっと搾り出す。カナエさんは顔だけを僅かに私のほうへ向け、それから笑った。
「そう思ってんのはあんただけ。案外絵も漫画も描かなくたって大丈夫さ、生きていくには必要ないからね。でも、本当に愛していたら嫌でも辞められないのよ。私は辞められたけどね」
彼女も昔色々悩んで、苦しみながら絵を描いてきたんだろうか。本当は絵が好きだけど、愛してはやれなかったのだろうか。憶測しかできないカナエさんの過去。でも絵を辞めたというカナエさんの顔は、変な話、嬉しそうだった。
「お嬢さん」
ジョージさんがにこやかな笑顔でテーブルの横に立つ。バラバラにされてしまった絵をとても大事そうに片付けて、ずいぶん時間のかかったミルクティーと、分厚いホットケーキを卓上に並べた。薄く透け光る蜂蜜と溶けていくバターの香りに、お腹が空いていたのを思い出した。今日、二回目だ。
「僕は君の本が読んでみたいな。今、買うことはできるかい? 御代はこのホットケーキとミルクティーになるけれど」
私に向かってウィンクするジョージさんを見て、思わずおかしくて笑ってしまった。
―――そうだ、帰ったらこの二人をモデルに話を描こう。
そんなことを考えながら、ホットケーキを切り分けた。