第一話。銀の淫魔(サキュバス)と紫の軽薄男(チャラオ)。
「っ」
吹いた風に、それと同時に駆け抜けた寒さに、わたしは体を抱きしめた。
二月もまもなく中旬。これぐらいの寒さは日常的。季節の区分けとは裏腹で、でも人間が決めた区切りなんてそんなものだと、人型でしかないわたしは思う。
でも今の震えは、気温から来るのとは違うなにか。体の芯を突き抜けて行ったような、どこか魔的な寒気。
この時期にはあたりまえに起こる知覚、当然の感覚。
今はバレンタインが近く、それはこの国 日本の数度ある年中の恋行事の一つ。この国に住む人の、生き物の本能がかなり表に出て来る。
生気が性的に活性化するのだ。
男性の生気を糧にするわたしは、毎年恋行事の時期には体を まるで風邪でも引いたように震わせることが多くなる。
これはわたし特有の、症状とも言うべき現象。自らの種族を嫌うわたしにだけ起こる、罰のような物。
「寒いのかい?」
声を賭けられた。透き通った、男性と言うには少しだけ幼さの残ったような声。
「はい。少し」
声に向くと、光沢のある紫色の髪と 黒瑪瑙の美しい瞳をした やはり声のとおりにあどけない雰囲気の男子だった。わたしと同じで、顔を二月の空気にさらしている。
今は平日の昼。学校が終わるか終わらないかと言う時刻だ。それでこの、人通りの少ないここにいるこの少年は、いったいどうしたんだろう?
「髪に艶がないね、顔色も白い。大丈夫?」
「はい。おかまいなく」
早く離れたい。まだ『食事』をするほどの空腹ではない。この少年を魅了してしまっては、申し訳ない。
「君だろ? 超小食のサキュバス、ネクロパって」
立ち去ろうとしたわたしの足を、少年の言葉が止めさせた。
「どうして、それを?」
右半身を90度後ろへ回転させ、顔を彼に向ける。
「ぼくは、君たちみたいな存在とはちょっと縁の深い一族でね。困りごと解決の手伝いをしてるんだよ。君に声をかけたのも依頼者に頼まれたから」
「そうですか。あまり、異形とかかわると死にますよ」
驚きはしたが、殺意 殺気と言った負の気配はしない。ただ興味本位で声をかけたみたいだ。だからわたしは、再び少年と離れるため歩き始めた。
「もったいないな。ちゃんと『食事』をとればきっと美人だろうに」
背中からそんな声がした。
おかしな人間だ。魅了した覚えもないのに、わたしを美しさで評価するなんて。
「嫌いなのかい、自分が。自分の種族が」
息を飲んだ。気付かなかった。遠ざかり始めていたはずの声が、すぐ後ろに迫っている。まったく気配がしなかった。
「ほっておいてください」
努めて冷静に、それでいて冷たく言葉を返す。返し続けている。
「そう邪険にしないでくれないかな? せっかく声をかけたんだ。こんな美人にツンケンされるのは寂しい」
それだと言うのに、この少年は。こいつは、まったく意にも介さない。
「あなた。女性に好かれないでしょう」
自然と声に溜息が混じっていた。
軽薄。優しそうに見えるけれど軽薄。この男の根っこはきっとそうだ。女と見ると声をかけずにいられない、そんな男だろう。
こういう軽薄な男は、生気が性的に活発で美味しいなどと、淫魔仲間から聞いたことがある。
冗談じゃない。こんな男に興味なんて沸くと思うの? ましてやこんな奴を糧にするなんて。
ーーこんな奴とキスしたがるなんて、信じられない。
「あ、ちょっと。まってくれって?」
走り始めたわたしに、しつこく声をかけて来る。
「ついてこないで」
一度止まってグルリ振り返って。自分で思う一番冷淡な声を突きさして、わたしはまた駆け出した。
***
「はぁ。気配は、ないわね」
まるでストーカーに怯える被害者のようにバタンと家のドアを勢いよくしめて、わたしは玄関に腰を落とした。
「それにしても。いったい誰がわたしのことを」
背中越しで、左手で鍵を閉めて、そのまま考える。
異形は種族の性質を抑制することを嫌う。淫魔の誰かが……いや、ひょっとすると母が。わたしの今を作り上げたお母様が。わたしを制裁するために探させていたのかもしれない。
この考えに至るには、今更なタイミングすぎるな、とは思うけれど。でも、わたしにはこんな考えしか浮かばない。
子供のころに『食事』の様子をお母様に見せられて、それがトラウマになってしまった。
お母様が見せた『食事』。
吸うことになった人の肉体が骨になり、そのかわりに、お母様の肌や髪の艶が増して美しくなる様子は、ただただ恐ろしかった。
だからわたしは、週に一人 それも最低限空腹を満たす程度にしか生気を吸わない。決してあんな化け物にはなってはならない、と子供の時分に刻み込まれたのだ。
超小食と揶揄されるのはこの、わたしの『食事』の頻度とその量の少なさから。
吸った後は少し倦怠感があるような感じがするだけだと、魅了を解いた後で見て知っている。
少し風邪を引きやすくなってしまうのは申し訳ないと思うけど、風邪を引きやすくなる程度で済んでるのをむしろわたしは誇っている。
それでもやっぱり。わたしは、
こうしてしか生きられない淫魔 サキュバスである自分が嫌いだ。
人間も他のなにかも、生きるためにはなんらかの形で栄養を補給しなければいけない。他の種族は、さまざまな形でその食料を変質させてから食べる物だと知っている。
でもわたしたちサキュバスは違う。直接に食料を変質させながら、その命を吸い尽くす。その様をくっきりと見せつけられた。それが、今でも恐ろしい。今でも悍ましい。
もし、母が制裁するためにわたしを探させたのだとしたら。もしかしたら、この肉体は滅ぼされるかもしれない。
母とわたしでは魔力の質も量も段違いだ。それも一つや二つの段ではない。天と地ほどの違いだ。
彼女がわたしに制裁を加えるとしたら。わたしは……滅ぼしてもらえるだろう。
この種族の定めから、開放してもらえる。
ーーなら。
それなら。彼を。
ーーあの軽薄な少年を探さなくては。
逢って、処刑場へ。
お母様の下へつれていってもらわなくっちゃ。
*****
「あ、いた」
今日はバレンタイン当日。この間より更に濃くなった人々の生気に、全てがおぼつかなく鳴りながら探し続けていた、そんな時。
まるでなにかを待つようにボーっと立っている、わたしとは逆に光沢を湛えた紫の後頭部が見えて、思わず声をもらした。
軽薄な少年。ただ、見た目は艶さえ感じて、人間のように見えるけど実はインキュバスなんじゃないか、そう思ったことすらある彼。
わたしは見た目と雰囲気の記憶だけをたよりに、なにも知らないまま、朦朧と探し続けていた。
母からの制裁
ーー死の裁きを受けるために。
どうしてだろう。遠い。
見えるのに。遠い。
定めを断ち切る案内人は目と鼻の先のはずなのに。
歩いても。歩いても。
まるで、蜃気楼のように。幻覚のように。まったく大きさを変えない。
わたしはたしかに、足を勧めてるはずなのに。まったく動いてる感じがしない。
「あ……」
フラリ。
空が。地面が。
世界がかしいだ。
「ぐっ」
受け身さえとれず。まるで石像が崩れるように、わたしはなんの抵抗もできずに地面につっぷした。
ーーそして。
案内人の力を借りずとも。母の力を受けるまでもなく。
……わたしの意識は闇へ。
ーー定めは。自分で断ち切ることができた。