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夏の春  作者: Chiaki
第二章 奏
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ep.7 可愛い弟




 彼女の優しく動く手を感じながら僕はこう思った。

 この時間がずっと続けばいいのに――。

 それは合宿を控えた前日の話だ。


 写真部での伊調さんは教室にいる時みたく寡黙で表情があまりない。

 まるで人形みたいだ。

 けれども、ピアノを前にした彼女は怒ったり笑ったりと忙しい。


 と言っても実際にそういった表情を浮かべるわけではないのだ。

 ただそういう風に感じる。彼女が豊かな喜怒哀楽をその手で表現している。


 彼女は瓶の香水みたいだと僕は思った。

 蓋を開けてみて初めて芳しい匂いが感じられる。しかしそうしない限り誰もその匂いには気づかないのだ。

 

 僕は伊調さん自身があえてその蓋を頑なに閉じているんじゃないかとふと思った。


「どうして僕にだけその音を聞かせるの?」


 彼女の演奏を朝の陽光が差し込む音楽室で聞いている時、ふとそんな言葉が口をついた。


 伊調さんは手を止めてこちらを見る。「あなたに聞いてほしいから?」


 疑問に疑問で答えられてもなあ。


「私はあなたに聞いてほしいから、演奏している。それ以上に理由が必要?」


 少し彼女の顔が紅潮しているように見えるのは気のせいだろうか。


「いや、こんなに上手なんだから他に誰か聴衆を連れてきた方がいいんじゃないかって思ってね」


 もちろんそんなことは少しも思っていない。彼女の音を独占していることは僕に高揚した気分にさせた。でも、なんとなくそれは僕に値する役ではないようにも思えた。


「遠慮しておくわ。これはリサイタルなんかじゃないもの。私が個人的にあなたにピアノを聞いてもらいたくて弾いているだけだもの。それに――」


「これは君自身に必要なことなのよ。ハルキ」


 初めて彼女に名前を呼ばれた、と思う。

 僕は恥ずかしい気持ちになった。

 

「僕自身に……?」


「そうよ。あなたと目が合った時に思ったわ」


「どういうこと?」その意味が僕にはわからなかった。


「こっちに来て、ハルキ」


 わけがわからないまま僕は彼女への距離を詰める。ピアノ用に置かれた黒くて長めの椅子に座った伊調さんの前に立った僕は、上目遣いで見つめられる形になった。


「もっと近く」


 鋭い声でそう言われてさらに一歩、近づく。そうすると、彼女も立ち上がった。

 

 眼前に互いの顔がある状態だ。普段少し遠くから見ている彼女の顔が明らかになる。

 

 眉の下で真っ直ぐに切りそろえられた前髪。さらにその下の目元に、小さくほくろがあることに気が付いた。

 

「もっと」


 だんだん近くなっていくその言葉に誘われる。やがてその距離がゼロになった時。


 


 僕は彼女に抱きしめられていた。


 伊調さんは僕の首の後ろに手をまわし、ほんの少しだけかかとを浮かせている。


「伊調さん……」

 

 喉の奥から声を引っ張り出す。抱きしめ返すでもなく、手を横にぶらんとさせたままで、なんとなくかっこ悪いかなって思った。


 彼女は何も言わず抱きしめたままだった。

 そんな僕が感じていたのは驚きが半分、なぜかもう半分は安心だった。


 首元から耳の裏にかけて彼女の匂いがする。それが僕にとてつもない安心感を与えるのだ。

 

 そして伊調さんは優しく僕の頭の後ろを撫でた。


 小さい手のひらと細くて長い指を感じる。


 そんなとき、僕はナツキのことを思い出していた。


 幼い頃に僕が泣いていた時。


――よしよし、ハルキは泣き虫さんだねえ。


 姉は笑って、僕の頭を撫でた。


 彼女の手はとても小さく、優しく、そして温かかった。




「ねえ」伊調さんの声ではっと我に返り、彼女の顔に向き直る。


「どうして泣いているの?」


「え?」


 気づくと頬の下を一粒の雫が流れていた。


 一つ。また一つと。


 彼女はその跡にゆっくりと顔を近づける。

 

 そして舌を少しだけ伸ばして舐めた。

 

 温かい感触が頬へと触れる。


「君って泣き虫だね」


 そう言って伊調さんは微笑んだ。


 初めて話した時の帰り際に浮かべた笑みより、ずっと素敵な微笑みだった。

 そして、誰かに似ているとも思った。


「目、閉じて」


 僕はそのお願いを受け入れた。


 やがて僕の唇には柔らかい感触が重ねられ――。




 途端に、バンッと何かが破裂したような大きな音がした。


 僕は反射的に伊調さんから体を離し、その音の方向を見る。


「何……してるんだよ……」


 右手で開けた扉を押さえながら、肩で大きく息をするナツキがいた。


 僕は伊調さんの方を窺い、そして驚いた。


 そこには先ほどの笑みが欠片も残っていない、これまで見たことないような冷淡な表情を浮かべた彼女がいたからだ。


 僕は、頭が真っ白になった思いで、その膨らんだ風船に針を近づけていくような状況を見つめていた。


「ナツキ……」何を言おうとするでもなく、僕はただナツキの名前を呼んだ。


「ハルキは黙ってて!」一蹴。必死の形相をして伊調さんに牙を剥くナツキが僕の方をちらりとも見ずに発言を遮る。


「あんた……何してたんだ」 激しい口調で再び伊調さんに疑問を投げかける。


「何って……わかるでしょ?」聞く者が凍り付いてしまうような声。軽蔑するような目つき。少しだけ僕は伊調さん……いや、二人とものことを怖いと感じてしまった。


続けて伊調さんが言葉を紡ぐ。僕は茫然とその光景を見ていることしかできなかった。


「別に私が誰とキスしようが勝手じゃない」


「違う! その子は私の……! ハルキは私の……」ナツキはその先の言葉に詰まる。


「私の? 何?」


 その疑問に対する答えはナツキの開いた口から出てくるはずだったが、その最中に溶けてしまったかの

ように言葉が失われてしまった。やがて、彼女は諦めたように俯いてしまった。


 そして伊調さんは唇で半月の形を作り、嘲るような笑みを浮かべた。


「可愛い弟?」


 ナツキの目が大きく見開かれ、伊調さんのことを見つめる。


 そして唇をぎゅっと噛み、くるりと僕らに背を向けてナツキは駆けだした。


「ナツキ!」僕は遠くなってゆく背中に向かって叫んだ。


「放っておきなさい」


 追いかけようとすると伊調さんは僕の前で左腕を伸ばし、その小さな手を大きく開いて僕の体を止めた。


「でも……」


「あなたには彼女の気持ちはわからないでしょう?」


 僕は何も言い返せなかった。そうだ。


 行ってどうするんだ? 僕はナツキになんて声をかけるんだ?


「今はこれでいいの。それよりも……」


 伊調さんはさっきまでの冷たさなんて無かったかのように、僕の方を見て笑った。

 でも、その笑顔には少しだけ悲しみが混じっているような気がした。


 そして彼女は続けて言った。その言葉は僕を更なる混乱へと導くこととなった。




「ねえ。今日私の家に来ない?」




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