ep.1 美味い飯の作り方
まどろみの中でかすかに気配を感じた。徐々に暖かくなってゆく春先の昼間に毛布でくるまって寝ているような、心地よさが含まれていた。
良い匂いがする。それも嗅ぎ慣れた匂いだ。ああ、気持ちがいい。とても安心する。
しかも手に触れるそれはなんだか柔らかい……柔らかい?
僕は薄っすらと目を開けた。するとそこには。
五センチメートル先にはナツキの鼻の頭があった。
「わあ!?」とっさに僕の口から驚きの声が発せられ、跳ねるようにベッドから飛び出る。
普段低血圧だかなんだか知らないが寝起きのすごく悪い方な僕。それでも脳が完全にクリアになるまで数秒とかからなかった。
「馬鹿! ナツキ! 起きろ! 僕のベッドで寝るな!」
半狂乱じみた叫びを浴びせると、上下ピンク色に桜の花びらがプリントされた薄いパジャマを着たそれは、もぞもぞと動いた。
「んん……」
すごく幸せそうな顔してやがる……。
だらしなく口元が緩んだ彼女の顔を見て僕は思った。
やれやれ。
その後リビングで母親からの例の言伝を見た僕は繰り返し嘆息しつつ天井を憂いの思いで仰いだ。
どいつもこいつも好き勝手だなあ。
♢♢♢
姉が朝ごはんを作っている。
我が家ではまず見ない光景だ。観測隊(メンバーは一名限りだ)にはにわかに緊張が走る。
どうやら先ほど僕を起こしに来た上についつい隣に潜り込んで眠ってしまったらしいナツキは、起きてすぐさま満面の笑みを顔中に張り付けて「私、朝ごはんを作ります!」と高らかに宣言した。
やけに上機嫌なもので、鼻歌なんかも交えながら卵を焼いている。果たして食えるものが出てくるのだろうか。
さっきも言った通りナツキが料理しているところなんてまず見ない。年頃の女子高生として料理スキルを身につけておくにはいい機会だと客観的に分析してみたが、いかんせん実験台になる身としてはせめて食することのできるものが出てきてほしいと願わんばかりである。
ここで一つ自説を展開したい。それは焼いた食パンの上に乗せたら大体なんでも食える説だ。その可能性は計り知れず、僕は異端の焼き鮭や、果てはふりかけやマヨネーズなど次々と食パンに本来乗せたりかけたりしない組み合わせを次々と発明してきた。大体バターさえ塗っていれば美味い。
……とりあえず食パンをトーストしよう。卵なら火さえ通っていたらどんな形でも良い組み合わせになるでしょう。……焦げてさえなければ。
まあ案の定焦がしちゃうんですけどね。
「ごめんハルキぃ……」と涙目でナツキが言う。
どうにかして黒焦げになったモノを再利用しようと試みたが、もう一度作り直すのが吉だった。
やれやれ。
僕の作ったスクランブルエッグ和えトースト(あくまでも食パンがメインだ)を頬張りながらナツキは言った。
「こほなふのもくほうができた」もごもごと口を動かしながらわけのわからない言語を口にするナツキ。
「食いながら喋るな」そう僕は言った。
ごくんと勢いよく飲み込み、椅子から立ち上がると彼女は言い直す。
「この夏の目標ができた!」
「ほう」
「ハルキに私のごはんを美味いと言ってもらう!」
「美味い」すぐさま僕は呟いた。
「達成した!? じゃなくて私が作った料理で! これハルキのスクランブル!」
エッグトーストを略すな。特にトースト。
「私もぴゅーって美味しい料理が作れるようになりたいの! だから、これから毎日私が料理を作る!」
それを処理するのは一体誰なんだろう。
「お姉ちゃんがんばっちゃうぞ!」
そう言って彼女はピンクパジャマのまま家を飛び出そうとした。
「待て待て待て。どこに行くんだよ」と僕は引き止めるようにして袖を掴む。
「本屋! 料理本買いに行くの!」
「まだ本屋開いてないだろ……まったく。というか服ぐらい着替えてくれ。ご近所で噂されちゃうだろ」
そんな僕の呆れ気味な言葉にナツキは猫撫声で返す。
「ねえ、ハルキも一緒にお買い物行こうよお。どうせお母さんたちしばらく帰ってこなさそうだし必要なものとか買いに行こうよお」
「わかったわかった……とりあえずもうちょい寝かせてくれ。明け方までずっとゲームしてたから眠いんだよ……」
「了解しました駄目人間殿! 寝顔の撮影は任せてください!」
「頼むから大人しくしててくれ……」僕は溜め息をつきながら支度の準備を始めた。
♢♢♢
姉と二人で出かけるなんて何年ぶりだろう。遠い昔のことの様に感じる。
横に並んで歩く彼女は珍しくスカートを履いていた。紺色のシンプルなデザインのスカートに白のシャツ。対して僕は普段通りジーパンに半袖という格好だった。これが一番楽だ。
というわけで近所の大型スーパーへ出向いた。自宅から駅までは幸い徒歩でも行けるぐらい近い距離にある。そして大体のものがその駅周辺で揃ってしまうのだ。
まず立ち寄ったのが本屋。僕は割と好んで小説なんかを読むタイプだが、最近は携帯で電子書籍が読めてしまうから本屋で紙媒体の本を買うことが少なくなっていた。ちょうどいい機会だし何冊かまとめて買っておこう。
ナツキはそわそわと落ち着かない様子で女性向けの週刊誌やファッション誌が並ぶコーナーを右往左往していたが、やがてこっちを見て困った表情を浮かべたので料理本のある棚を指さしてやると三日続けて降っていた雨が止んだかのごとく晴れた表情を浮かべてその方へと足を進めていった。
次に立ち寄ったのが雑貨屋。これもナツキのリクエストだ。そこで彼女はマグカップを二つ買った。対になっている猫のイラストが入ったやつだ。
最後に食品の買い物をした。牛乳やら卵やら荷物が重いのなんの。食パンも忘れない。家にあるやつはどれも賞味期限が結構近かったからいろいろ買い足しておいた。代金は母親の書置きと共にあったまとまったお金から出しておいた。ナツキがお菓子やらジュースやらポンポン買い物かごに入れる上に帰りは僕が袋を三つ分持つことになった。
「なんか楽しかったね」
夕焼けがアスファルトを照らす帰り道。途中でナツキがそう呟く。
「二人で出かけることなんてめったに無いからな……学校が一緒だから朝に一緒歩いているだろ。つか重いから一つ持ってくれよ」僕は左手に持っている方のパンパンに膨らんだ買い物袋を彼女に差し出した。
「やーだ。学校はまた別じゃん。なんていうかさ……こういうのってあれみたいだよね! デートっていうかさ」ナツキはにやりという表情を浮かべる。
「デートちゃうわ」
「なに? 照れてんの? まったく可愛いなあハルキは」
「うっせえ。つかナツキって彼氏つくんないの?」
「うーん……彼氏いなくても平気だもん」
「なんじゃそりゃ」
家につく頃にはすっかり晩ごはんの時間帯だった。
結局料理は当番日制になり、ひとまず今日は僕が作ることになった。
簡単にできるレトルトソースのパスタを作った。やっぱりカルボナーラは正義だ。
ご飯を食べ終わって自室に戻ると、机の上に一つ、見覚えのある袋があった。今日買った雑貨屋のやつだ。中には箱に入った猫の絵柄のマグカップが一つと、一枚のメモ用紙が入っていた。
『今日はありがとねハルキ(*´Д`) ナツキより』
やれやれ。明日は黒焦げの卵じゃなくて美味い飯が出てくると良いなあ。