ep.17 月光
――ここ、どこだ?
ナツキと星空を見た後のことだ。急に後頭部に衝撃と熱さが走った。堪らず前のめりに倒れ込む。
そこから記憶が無い。
僕は今、真っ暗などこかにいた。多分部屋だ。窓から月の光が入ってきていて、堅い椅子のようなものに座っていることだけが確認できる。体を動かすとギッと軋む音がした。
どうやら後ろ手に椅子へと縛りつけられている。ご丁寧に両足も固定されていた。
頭を堅いもので殴られたのか、ズキズキと痛む。もちろん押さえようとした手はロープのような紐によって阻まれてしまったが。
「起きたのね」部屋の奥の方から声がした。
トントンと床の木を鳴らしながら、月明かりがほんのりと差す部屋の窓ガラスの傍に誰かが歩む。
「伊調さん……」白い夜の光に照らされた彼女の姿がそこにはあった。
「あら、驚かないのね」制服姿の伊調さんはふっと笑いながら「意外だわ」と意地の悪そうな顔を僕に見せた。
「これはどういうことだろう」僕は彼女に向かって声にならない声で聞く。
「ちょっとした余興よ」
「余興?」
「ええ」伊調さんは僕に向かってゆっくりと歩み寄る。「楽しい夜の始まりよ」
彼女は僕の右の頬を軽く撫でながら唇にキスをした。
「こんなことをして何の意味があるんだろう」僕はぽつりと呟いた。
「意味なんて無いわよ」
「僕は――」と言葉を紡ごうとしたが出来なかった。彼女は再び僕の唇を塞いだ。さっきより深く。舌が入り、貪られる。より官能的に。
「あなたは何も考えなくていいのよ。ただ身を任せればいいだけ」
離れた舌からはすっと透明な糸が引いていた。
「伊調さん……」
「私には弟がいたの」
唐突に彼女は切り出した。
「あなたたちと同じように仲の良い姉弟だったわ。年の差も一緒の二つ下。たまに喧嘩はしたけど可愛い弟だったわ。中学の登下校はいつも一緒だったし、お互いの誕生日にはプレゼントを贈り合ったりしたものよ。周りには言われていたわ。『まるでカップルみたいだ』ってね」
伊調さんはこれまで僕に見せたことのないような幸せそうな顔をして語っていた。
僕は何も言わずに彼女の独白じみた話を聞くだけだった。
「私の部屋でピアノを弾くと弟はいつも嬉しそうに聞いてくれたわ。『お姉ちゃんのピアノ、好きなんだ』っていつも言ってくれた。そう言ってもらって私は嬉しかったわ。親にやれって言われてやっていただけだけど、どこかやりがいを見つけたような感じがしてね。別にピアノを弾くこと自体はそんなに好きでもなかったの」
「僕も伊調さんのピアノは好きだよ」
「……ふふ、ありがとう。思えばあの頃は幸せだったな。弟と一緒に過ごした時間は私にとってはかけがえのない宝物だわ。でもそんな幸せな時間は長く続かなかったの。ある日のことよ。それも夏休みの、今日と同じような暑い日だったわ。私はピアノの発表会が近くて、焦る必要もないのにどこか切羽詰まってしまっていたんだわ。そこで弟に当たってしまったの。八つ当たりもいいとこよ。でも、些細な一言で喧嘩ってほどでもないけど言い合いになってしまったのね。本当馬鹿みたい。当時の私も思ったわ。『馬鹿みたい』って。もちろん余裕のない自分がよ? それで、翌日謝ろうと思ったわ」
伊調さんは僕の目の前にいたけど、僕から視線を外して喋り続けていた。過去の自分を見つめるように部屋の奥の一点だけをじっと見ていた。
やがて、彼女は僕の前から離れて窓際の方へと立った。
「でもその謝る機会は来なかったのよ」
窓の外をじっと見つめる横顔には何の表情もない。しかし彼女の窓についた指の先は静かに震えていた。
「燃えちゃったの。何もかも。生まれ育った私の家も。ずっと弾き続けたピアノも。そして、大好きな弟も」
僕はそれを聞いて唖然とした。
ふと脳裏を過ぎる彼女の家。新築の家のにおい。
「あなたが家に来た時、私以外の部屋に入っちゃダメって言ったわよね。二階の奥が私の部屋。その手前にはあるのよ。弟の仏壇がある部屋がね」
伊調さんは僕に笑いかけて言った。
「その火事は私をピアノの発表会へ両親と共に向かっている時に起こった。原因は父親の煙草よ。ありきたりでしょ? 弟も発表会に来る予定だったけど、私はリハーサルの為に早めに両親と家を出ていたの。私たちが警察から連絡を受けて家に戻った時にはもう家は全焼よ。幸い、という言い方は出来ないけど延焼は無かった。死んだのは弟一人だった」
「どうして助からなかったの?」やっとの思いで僕は口を開く。椅子に縛られている手の感覚は無くなっていた。
「それがまた馬鹿な話よ。弟が発見されたのは私の部屋だった。私のピアノを抱きかかえるようにして遺体はあったのよ。どうしたかったのかしらね。私は弟じゃないからわからないわ。でも、それを聞いた時に思ったの。『私が死ねばよかったのに。どうしたらよかったの? どうするのが正しかったの?』って」
僕は困惑していた。伊調さんがそんな経験をしていたなんて思いもしなかった。多分彼女は元は明るい子だったんだ。ナツキと同じように。普段僕にだけ向けて浮かべる笑顔を見ていたら分かる。でも、それは損なわれてしまったものだったんだ。
「君と放課後の音楽室で出会った日。あの日は命日だったのよ、弟のね。私が弾いていたのは鎮魂歌。ううん、あの日発表会で弾く予定だった曲。弟が『上手だね、素敵な演奏だね』って言ってくれた曲だわ。だからこそあなたが現れた時はびっくりした。だってあなたの笑ってる顔が――弟とそっくりだったんだもん。『ピアノ、上手いんだね』って笑いかけてくれたその顔も、少しおどおどとした感じも」
伊調さんはいつの間にか涙を零していた。「ずるいよ……ハルキ」
僕の名を呼び、再びこちらに近づいてきてキスをする。さっきよりもずっと温かい唇だった。
「ずるいよ……ソウタ……」
ソウタ。弟の名前だろうか。僕の目の前で泣きじゃくる彼女は子供みたいで、その姿は僕にある人物を想起させる。
――ナツキ。
僕はなんて彼女に声を掛けてあげればいいんだろう。何が正しい解なんだろう。
ナツキ。
――大丈夫。一人でも大丈夫だから。
さっき話したナツキの言葉が蘇る。
大丈夫なわけがないだろう。そうだ。大丈夫なわけがないんだ。
一人で大丈夫な人間なんていないんだ。
「伊調さん」僕は切り出した。
「僕はナツキのことだ好きだ。姉弟だからじゃない。家族としてじゃない。一人の女の子としてナツキが好きなんだ」
「……どうしてそれを私に言うの?」鼻を軽くすすりながら伊調さんが僕をじっと見ながら聞く。
「それが正しいと思ったからだよ」
「そっか……」少し間を置いて彼女は今までで一番晴れやかに笑った。
「でも、もう後には引けないわ」
「え」僕は喉元から声を漏らす。
彼女は部屋の脇にあった毛布を僕の座らされている椅子の前に置き、そしてどこからか小さい箱のようなものを取り出した。
彼女が何の表情も浮かべず頼りなさげな月明かりに翳したそれは、マッチ箱だった。
「伊調さん……」
「駄目なの。私は悪くないの。だってこれが私にとっての正しさなんだから間違っているって認められないの。だから――私の為に一緒に死んでもらうわ」
「待て! 伊調さん、それは絶対に違う! 間違ってる!」
「……うん、多分その通りだと思う。でももう手遅れよ。ありがとうハルキ。あなたに私の弾くピアノを褒めてもらえたこと、そして写真部に誘ってもらえたこと、嬉しかったわ。できることならばこれからも――」
そう言って彼女は、涙を流しつつも笑みを浮かべながらマッチを箱から一本出し火を――。
「そこまでや」
突如大きな音を立てて入口の扉が開く。伊調さんはその轟音に驚いて火の点いていないマッチをぽろりと落とした。
そこにいたのはどこまでも可憐な少女――腕組みをした写真部部長だった。




